
本日も快晴! 今日からが、本当の旅の始まり。 マドリードはいわば、「pacollamaさんのリマ」。 外国に来た感が薄すぎます。
レンタカーは出発前に予約しておきました。 日産の中型車を選びましたが、気になったのは、「日産カシュカイ、もしくは同等車」との但し書きがあったこと。 で、やはりそれがワナでしたわー!
出てきたのは韓国車で、えっとえっと…それって同等? いまどきの韓国車は、きっと良くなっているのでしょうけれど… とはいえ異国で十日間、使ったことのない韓国車に身をゆだねる勇気は…むむむむむ。
すると超愛想の良い担当の女性が、てきぱきと持ち掛けてきます。
「今ちょうど、トヨタの当年式ハイブリッド大型車が、整備済みですぐさま使える状態です! ご予約車種よりランクが上ですので、一日あたり10ユーロ高くなりますが、そこを特別に5ユーロに勉強いたしましょう! え、大きすぎる?…でもまあ、見るだけでもいかがでしょう?!」
…もちろん見たらおしまいです。 おかげさまで超快適な旅になりましたが、でも予算は、旅行五日目にしてすでにだいぶ超過です。
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アトチャ駅近くのレンタカー会社
ところで後日、もう一日だけ別の車を借りて、まったく同じことが起きて、確信しました。 これはレンタカー会社の、売り上げアップのための策略ですね……
予約リストには人気車種を載せておき、でも一段劣って見える車を、「同等」と称して出す… そうすることで、上のランクの車種へ、うまくお客を誘導しているのではないでしょうか。
(帰国後、メーカーとモデルを事前指定できる会社を、マドリード界隈ではひとつだけ見つけました。 少し割高ですが、何が出るかわからない不安よりずっといいので、次回はぜったいそこにします。 まあ別のワナがあるのかもしれませんが…)
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本日の目的地アビラは、高速道をまっすぐ110キロ進むだけ。 迷うはずもありませんが…
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…でも念のため、google mapに目的地をセット。
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今日から大騒ぎのはずのマドリードから、いよいよ脱出です。 (下のようなダフ屋さん?のチラシ、いっぱい見かけました)
 市内を抜けるまでは、車が多くてドキドキします。 ちょっとモタつくと、すぐ後続車に叱られますし。 (スペインでも、なぜかいつもプジョー車に叱られます。リマでもプジョー車ってよくケンカを売ってきますが…)
女友達運に恵まれている私は、二十代前半に二回、それぞれ別の「運転してくれる女友達」(ふつうなかなかいないですよねっ?!)とスペイン自動車旅行をしたことがあります。 お二人とも華やかなタイプの女性で、それなのに私が行きたい地味〜な田舎につきあってもらい、今でもときどき思い出しては、ちょっと申し訳ない気持ちになったりしています。
でも今回は、ぜんっぜん申し訳なくない宿六が運転手。 女性同士の旅と比べると、会話の楽しさには欠けますが、これもまた気楽でいいです。
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あれ?あれれれ? 高速道を行くはずなのに、なぜか細い道に導かれていく…
スペインというと、「高速道の出入り口の表示がわかりにくい」という先入観があります。 コンポステラから北のア・コルーニャに行こうとして、なぜか南のポンテベドラに行ってしまった、という経験があるため、宿六もピリピリしていました。 でも旅のあいだじゅう、Googleさんがよく機能してくれて、まったく困ることはありませんでした。
ただGoogleのお姉?さん、ときどきブチ切れますね? 左へまわれ左へまわれ左へまわれ…と連呼し始めたり(それじゃ元に戻ってしまうよ…)、またどういうわけか、妙な個性を出して来ることもあって…
今回同行のお姉?さんは明らかに、景色の良い田舎道を好む傾向がありました。
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あとで確認すると、別に大したまわり道でもなく、きれいな松林を見ることができて幸運でした。 でも走ってる最中は不安でした。 この道はア・コルーニャに続いているようですが、今回はア・コルーニャに行かなくていいんですよ、お姉さん!
上の写真の、石の小塔のようなものはpicutosといって、18世紀半ば、この道が作られたときからあるそうです。 夜間、ここに鎖を張って、通行税逃れや松材泥棒、密猟者などを防ぐためだったとか。 風情のある道しるべ、と思っていたら、えらく現実的な目的があったのですね。
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これから無数に見ることになる、鹿飛び出し注意。 スペインって鹿だらけなのですね。 それでも前国王は、わざわざ象を撃ちにアフリカまで行ったのか…
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あっというまにアビラの城壁が見えてきました。 ここも若い日に一度来ましたが、晩秋だったので、標高1117mもあるアビラは冷え込んでいました。 むやみに寒い中、城壁の上をとぼとぼ歩いたことくらいしか思い出せません。 でも初夏の今は、晴れ渡って暑いほどです。
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マドリードではさんざん「今年は夏が早まった!」と聞かされていたので、アマポーラは諦めていました。 でもこのへんではまだ咲いています!また会えて嬉しい!
(と、日本の友だちに話したら、さいきん東京ではヒナゲシが雑草化して困っているとか? 一瞬羨ましい、とか思ってしまった… でもあとで調べたところ、この深紅のヒナゲシは、日本で悪者扱いされているオレンジ色のナガミヒナゲシとは、違う種類のようです)
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林になった一角は、地面が真白です。 いったいなにごと?!
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ポプラの綿毛でした! (パチャカマックの家のポプラは、開花したことありません)
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ずらり並んだ車も気にならないほど、みごとな城壁。 たくさんの塔のまわりをツバメがとびかっています。 なんというか……「スペイン」ですねえ。
アビラはローマ起源の古い町ですが、8世紀以降はカトリック教徒とイスラム教徒のあいだで、とったりとられたり… さぞや散々な目にあったことでしょう。また、だからこその立派な城壁、ですね。 今ある城壁は、カトリック側に奪還された12世紀以降、もともとあったものを利用&補強しつつ、徐々に形作られていったようです。
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今日のお宿は城壁内。 それも大聖堂(行かないけど…)からわずか1ブロック!
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アビラ行はぎりぎりになって決めたので、手ごろな宿はほとんど残っていませんでした。 城壁内の便利なところで、唯一見つかったのがこの民泊。
入ると長い廊下があり、寝室が三つも並んでいます。 味もそっけもない内装で、カギを持ってきてくれたオーナーさんも同様でしたが(おっと失礼…)、とても清潔で広くて、最高の立地で、二泊だけならまったく問題ありません。
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居間。 (壁の絵は、裏返しにしたい衝動にかられましたが…)
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寝室のうちのひとつ。
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こちらの主寝室は、スーツケース置き場に。 とにかく私たちには、むだに広いです。 スペイン国内からの家族連れが長逗留、というケースが多いらしく、たしかにそれだったらぴったりでしょうね。
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台所。 洗濯機と電磁調理器具つき。
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洗濯物が一瞬で乾きそうな物干し場。
バストイレはふつうにきれいでしたが、写し忘れ。 特におもしろくないので、間取り図も省略。
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アビラはうすら寒いほうを心配していましたが… 暑い暑い! そしてめまいがするほどの青空です。
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味のある民具がたくさんおさめられた、アビラ博物館へ。
中庭の奥に、動物型の大きな石像が見えますが、verracoというそうです。この旅で覚えたさいしょの新単語。 ローマ支配期以前に遡るベラコは、(そうは見えないけど)牛、豚、イノシシをかたどっていて、アビラ周辺でさかんに作られたそうです。
そういえば、女王になる前のイサベル一世と、兄のエンリケ不能王(なんてトホホな綽名…)が、王位継承権をめぐる条約を結んだ「トロス・デ・ギサンドToros de Guisando」、というところがあります。 妙な地名だなあ…と思っていましたが、これも近くにベラコの牛さんが五つ(当時、現在は四つ)並んでいるからだそうです。
アビラからは車で1時間ほど。行こうかなと、ちょっと迷いました。 でもスペイン人のみなさんの、「意外に牛が小さい…」というコメントが多くて見送りました。
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お土産屋さんに飾られた、アビラ名物、聖テレサの卵黄菓子。 シナモンとレモンで香りづけしたシロップと卵黄を、お鍋でじわじわ練り上げるだけなので、再現はわりと簡単なお菓子です。
修道院系の古風なお菓子って、大しておいしくなくても、なんか楽しいですよね。 でも今回は見るだけ。
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お昼は城壁の外のレストランへ。
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ここからは城壁がきれいに見えそうなので、来てみましたが…
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ざんねん、木々が茂りすぎて、室内からは見えません。
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でも、ほとんど流れていない静かなアダハ川と、渡ってきた古い橋が目の前です。 ポプラの綿毛もしきりに飛んで、それを眺めていると、の〜んびりと良い気分になってきます。
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サラミ入りマッシュポテト patatas revolconas パプリカを、えい!これでもか!と入れるのがコツらしく。
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鴨の生ハム入りサラダ。 ピスタチオのドレッシング。 パンは見るだけ(^^)
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アビラ牛の特大ステーキ Chuleton de ternera 文句なしにおいしいです。 仔牛にしては固いですが、そこが好み。
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こういう色と光は、見ているだけで(飲まなくても)陶然とします…
赤いのは、有名な食後酒パチャラン(pachar'an)。 エンドリーナという紺色の小さな果実を、アニス酒に漬けたものだそうです。 アニスの甘さ苦さと、サクランボに似た香りが、とても良い組み合わせ。
透明なのは、オルホ(ぶどうの搾りかすで作る蒸留酒)。 そして緑がかった黄色がきれいなお酒は、マンサニージャ(カモミール)やレモングラスの香りがしました。 (インカコーラにちょっと近いかも…(^-^;) たぶんオルホの薬草酒?
ここでいらぬことを申しますと、糖分をたっぷり含む食後酒が消化に良い、ということはありえないですね。 アルコール分と糖分で、食後のだるさから一瞬ぴりっと目が覚める…ような気がするだけです。 百歩譲って、薬草成分が胃に良いとしても、糖分で帳消しなので、あとでいっそうグタっとくる可能性、とても大。
もちろん非日常の旅行中は、そういうグタっと感も楽しみのうち! でもまだ旅は始まったばかりなので、ほどほどに…
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空の青さにコロっと騙されてしまいますが、おやおや、もう夕方5時! あわてて聖トマス王立修道院へ。どこもみな、夜8時には閉まってしまいますから。 タクシー運転手さんが、「今からこんなに暑くて、この夏はどうなってしまうのだろう?」と、愚痴ること愚痴ること。
それにしても立派ですね、アビラの城壁は。 だいぶ修理はされてると思いますが、まさかチャンチャン遺跡みたいにほぼでっちあげ、ということもないでしょう。 少し酔っているとなおすばらしく見えます。旅はやっぱりいいなあ〜
…リマの晩夏の青空のもと、あちらの世界へ旅立っていったかわいい猫たちの姿が、ふっと脳裏に浮かびます。 でも、今はもう彼女たちの心配がないからこそ、旅を十二分に楽しめるのですよね。
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聖トマス王立修道院。
アビラは、いくらでも見るべきところがあります。 ただこれも年の功、たくさん見ればいいってものじゃない、とわかっていますので、今日あすはイサベル女王に絞ります。 ふつうアビラと言えば聖テレサですが、前回ひととおり見たはずなので(何も覚えてないけど…)、今回は抜きにします。
高名なカトリック両王のかたわれ(強いほう?)、イサベル女王には、私とたったひとつだけ共通点があります。 それは、「亭主が一歳年下で、フェルナンドという名である」、ということです。フフフ… バカみたいですけど、でもそれが、イサベル女王に興味を持つきっかけとなってくれました(笑)
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「カトリック両王の回廊」。1300uほどある広大な回廊です。 誰もいません、すばらしい!
…ほかの観光客は、今ごろは血糖値が急降下して休憩中? 糖質制限していると、こういう時間帯に強いのです!
教科書的に言えば、カトリック両王はスペインの今のかたちを作った偉人、なのでしょう。
この地球上では、なぜか偉人=苦労人、という思い込みがありますね。 イサベル女王の生涯も、年表にしてみると、心休まる静かな年なんて一度もなかったことが、容易に想像できます。
でも、生涯つねに新たな敵(兄、姪っ子、イスラム教徒、ユダヤ教徒、改宗者、国内の反乱分子、近隣諸国、等々)を見出しつづける人生というのは、いつもわかりやすい大義名分があって、とりあえずの達成感もあって… むしろ生きやすかったのではないかと思います。
そして女王として、何もかも完璧に掌中におさめ、思い通りに動かそうとし、じっさい前半生では、ほぼすべてうまくいったわけです。 しかし晩年にさしかかり、もっとも頼りにしていた家族が、まったく思い通りにならない、という難題にぶちあたります。 その中でも最大の悲劇が、この修道院にりっぱな形となって残っているので、どうしても来てみたいと思っていました。
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「両王の回廊」と、その片隅にある月桂樹
カトリック両王がここを夏の宮殿として使ったので、こう名付けられたそうです。
修道院の建築じたいが、もろ両王が大活躍した時期にあたっています。 着工が1482年(グラナダ再征服戦争が始まった年)、完成が1493年(コロンブスが第一回航海から帰国し、第二回航海に出発した年)ですから、イサベル女王も使命感に燃えて、元気いっぱい国政にたずさわっていたころでしょうね。
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回廊の井戸に絡むつるバラに、かわいい小鳥。
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聖トマス修道院には、三つの回廊があります。 これは「沈黙の回廊」。聖職者たちの埋葬場所でもあったので、そう呼ばれたそうです。
広々とした三つの中庭に、初夏の光がふりそそぎ、なんともすがすがしい気持ちになります。 でもここには、あの恐ろしい異端審問所が置かれていたこともあったそうです。 スペインはそのへんがたまりませんね…ただステキ、ではすまないとこばっかり。
有名な異端審問官トルケマダも、この回廊に葬られたらしく… でもフランス軍の侵攻やら内戦やらいろいろあったせいで、その遺骸は行方不明となっているようです。
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「沈黙の回廊」は、装飾的にも沈黙どころではないですね。 四面にエンドレスでびーっしりと刻まれたカトリック両王の紋章(束ねた矢とくびき)が、声高になにごとかを語っているような?
この二つの紋章は、のちにファシスト政権のファランヘが借用したおかげで、とっても印象が悪いですが… でも、矢をしっかり束ねる紐と、くびきから断ち切られた「ゴルディアスの結び目」に躍動感があって、なかなかいいデザインですよね。
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この旅さいしょのコウノトリの巣!
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今はちょうど、子育て真っ盛りのようです!良かったー
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聖トマス修道院に、大学があった時代のなごりでしょうか? 古めかしい剥製展示室があって、そこでコウノトリのでかさを実感できました! いつも高いところにいるから、もっとかわいく見えますが、直接対峙はしたくない大きさですね。 虫、カエル、魚、小鳥などの小動物だけ、とはいえ肉食は肉食ですし…
さてコウノトリからイサベル女王に戻ります。 カトリック両王の後継ぎとして大いに期待され、また人柄の良さでも知られていたらしい長男フアン君のひつぎが、この修道院の礼拝堂に安置されています。
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長男死去の年から(いえ、その前年の母の死もこの不幸リストに入れるべきでしょう)、イサベル自身の死までの8年間は、両王にとって悲しみの連続で、もしかして大運天中殺の終りかけ?…などと思ってしまうほどです…
1496年 母イサベル・デ・ポルトゥガル、アレバロで死去(68歳)
1497年 長男フアン死去(19歳) 数か月後、フアンの新妻だったハプスブルク家のマルガリータが、女児を死産
1498年 フアンに代わり、両王の後継者に指名された長女イサベル(ポルトガル王妃)が、出産直後に死去(27歳) (…この長女イサベルがまた、「ポルトガル領内からのユダヤ人追放」をポルトガル王との結婚条件とした(ひええええ…)、という大した女性ですが、この一家は役者揃いすぎでキリがないので、省略します…)
1500年 故・長女イサベルとポルトガル王の長男であり、両国を継ぐはずだったミゲル・ダ・パス(2歳にもならず)死去。
1502年 ミゲル・ダ・パスに代わり、ハプスブルク家に嫁した次女フアナ(23歳)を後継者に指名。 しかしフアナは、すでに22歳ごろから精神に異常をきたしはじめる…
1504年 イサベル死去(53歳)
当時(そして今なお、某国天皇家などではそのようですが)、王族の大切な持ち札だった子供たち。 それが、「まだこの子がいるから大丈夫…」と思うたびに、ひとり、またひとりと失われていく悲劇… イサベルの死因は子宮がんと推定されていますが、子孫をめぐるあまりの心痛が、そういうかたちをとってしまったのかもしれません。
でもこの辛い時期に、全戦全勝の半生では決して得られなかった魂の成長を、イサベルが経験したのはまちがいないと思います。 また亡くなる前年、後継者フアナが次男フェルナンド(のちの神聖ローマ帝国皇帝)を出産し、両王(じいさんばあさん)の手元で育てられることになったのは、さぞ大きななぐさめだったはずで、ちょっとほっとしますね…
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統一されたスペインを受け継ぐはずだった、若きフアン君の墓所。 カトリック両王の、無事に育った唯一の男児でした。
大理石のこの墓所は、1510年、お母さんの遺志を受け、お父さんのフェルナンドがイタリアの名工に注文したそうです。 こういうものは、贅沢であればあるほど、より悲しいですね。 しかも、19世紀のスペイン独立戦争(半島戦争)の際、この墓所も荒らされ、現在フアン君の遺骸の行方はわからないそうです。 (遺骸なんて、本当は惜しがる意味なんてないと思いますが、親御さんの気持ちを思うと物悲しいです)
そしてその半島戦争が、ペルー含むスペイン領アメリカの独立運動のきっかけとなったそうですが、これもきりがありませんので……
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親が抱く子供への思いには、それ自体にすでに、ちょっと悲しいところがありますね…
多くの親が(全員じゃないと思うけど)、子供には自分ができなかったことをやってほしい、という夢を託しますが、でもあるとき必ず気づくわけです。子供と自分とは、まったくの別人格である、ということに。
そして、たとえいっときは「自分の血を残せた」という安心感があったとしても、その子の中には、自分の「意識」はまったく引き継がれていない、という当たり前の事実にも、あるとき愕然と気づくことになります。
自分にとってかけがえのない、おそらく誰にとっても失うのがいちばんこわい、自分の「意識」というもの。 それは厳密に自分にしか属していなくて、またそれをどういう状態に保つかも、すべて自分しだい。
修道院や山寺でいくら悟りすまして生きたところで、そういう諦観には、そうそうかんたんには辿り着けないことでしょう。 ましてやイサベル女王のように、自分の子々孫々が引きつぐはずのスペイン、カトリック世界、ひいては新大陸にまでエゴを投影してしまった人の場合は…
カトリック両王の後継問題は、心配して思いつめれば思いつめるほど、予想外の悪いほうへものごとが転がっていってしまう、という、たいへんありがちな現象の好例でもあります。 そこにも(ちょっと申し訳ないようですが)えもいわれないおもしろさがあります。
歴史に「たとえば」はない、と言いますが、私はたぶん、大ありなんじゃないかと思います。 宇宙はあまりにも広大な実験場、ありとあらゆる「たとえば」を、軽く包含できそうですから。
だからどこかには、カトリック両王の長男フアン君が無難にスペインを受け継いで、こじんまりとしたスペイン国としてやっていったバージョン、なんていうのも存在するかもしれません。
あるいは、長男君は病弱だったから無理としても、ポルトガルにお嫁にいった長女の子、ミゲル・ダ・パス君が無事成人し、ポルトガルとスペイン両国の王となったバージョン、というのも興味深いです。 その場合、果たして今の私たちはスペイン語で暮らしていたでしょうか、それともポルトガル語だったでしょうか?
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夕方7時に城壁へ向かいます。 8時まで開いているはずですが、チケット売り場では、 「どうしても今日でないとだめっすか?明日はアビラ観光の時間は、本当の本当にありませんか?」 と、しつこくしつこく聞かれます。なぜ?
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石組みの隙間で育つ多肉植物。
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こちらでも何やら盛大に咲いています、なんの花かな?
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1465年、お姫様時代のイサベル(当時14歳)の、幼い弟アルフォンソ(11歳)を、取り巻き連中が担ぎ上げます。 そして、兄王エンリケを廃してアルフォンソに戴冠する、というパフォーマンスを繰り広げたのが、アビラ城壁のあしもとだったそうです。 このアルフォンソ君もまたしんどい短い生涯で、わずか14歳でアビラ近郊で亡くなっています。
…と、感慨にひたりつつも、照りつける陽射しがちょっときつくなってきました。 でも私たちの前を、小柄な韓国人夫妻が元気いっぱい歩いていて、さらにその先にはパワフルな中国人グループもいて、なんとなーくその勢いにひっぱられて前へ進みます。
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↑この人に叱られた。
ただ時計はチラチラ気にしていました、城壁の上に閉めこまれたら、かないませんから。 そして、あと15分で8時だから、そろそろ下り口を探さなくちゃ、と言っていると、むこうから管理人が怒り顔でやってきます。
「時間オーバーですよ、すみやかに出ていってください!」 え、まだ15分残っているのに?
よくよく話を聞きましたが、どうも腑に落ちません。 下り口によって閉門時間がちがうらしい?のは、うっすらとわかりましたが… 本来私たちは、ここより手前の下り口で、それも7時半までに出なければならなかった、らしいです。
韓国の小さなおばちゃんは、しきりに私に向かって「なに怒ってんのかしらねえ?」と肩をすくめて見せるし、中国人グループのほうは「8時閉門と明記してある!」と怒りまくっていましたが、これはやっぱり観光客の言い分が正しいです。 入り口での説明がいけません。スペイン語で何度聞き返しても、意味不明だったくらいですから。
もっとかんたんに城壁の全区間で、「7時半までに出なかったら、城壁に閉じ込める」と決めればいいだけでしょう。 でもその小さな変更を惜しんで、管理人さんたちは毎日毎日、謎ルールに従った同じたたかいを続けているようです。 ごくろうさまなことです… でもそのおかげでよく歩けて、健康にはよさそうな職場!
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夜8時の青空。 宿へ休みに帰るのがもったいないみたい。
一日爽快な(やや爽快すぎる)青空の下にいて、すっかり忘れていましたが、昨晩も時差でよく眠れなかったのですよね。 こういうとき、以前だったら頭痛で一日苦しんだはずですが、今日はまったく平気でした。
博物館も教会も、もうみんな閉まってしまったので、仕方なく宿へ戻りますが、まだまだ体力に余裕があります。 この感覚、人生初体験! やはり今の食生活、私には非常に合っているようです。
さて明日は、イサベル女王の生没地をたずねてみようと思います。 やや強行軍になりそうなので、リラックスしてよく眠れるように、今夜は持ってきた紅茶を飲んでみます。
(でも宿の台所には、やかんも紅茶ポットも茶こしもなく… やむなく小鍋で紅茶をわかし、フライ返しのすきまで濾して飲みました…やはりここはコーヒー文化圏)
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今日の予定。
アビラから近郊をぐるっとまわって、計250キロの行程ですが、歴史がすし詰めになった町ばかり。 どこも見るものが多そうです。果たして一日でうまくまわれるでしょうか?
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イサベル女王が幼少期(1454年〜1461年)を過ごした、小さなアレバロの町にやってきました。
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宿六期待のお城へ直行! 今日も朝からものすごい快晴です。
イサベル女王のお父さん、フアン二世は二回結婚しています。 さいしょの結婚で生まれた長男エンリケが後を継ぎ、セゴビアに宮廷を構えたころ、後妻とその子供たち、つまりイサベルとアルフォンソ姉弟は、ここアレバロに住んでいました。
不能王と綽名された長男エンリケにしてみれば、自分の後継ぎがなかなか生まれないこともあって、相当に目障りな妹弟だったことでしょう。 ですからきっと幼いイサベルも、この小さなお城で、「私たちはいったいどうなってしまうのだろう…?」と心細い日々を過ごしていた……と想像したくなりますが、残念、そうではなかったみたい。 お城から離れた町なかに、今は消失した館があり、母子三人はそちらで暮らしていたそうです。
アレバロ城じたい、きちんと建造されたのはもっと後年で、最終的にはイサベルとフェルナンドが即位後に今の形に仕上げたとのこと。 小さいのに、要塞らしい張り詰めた感じのあるお城と、かわいそうな立場のお姫様、というのはたいへん絵になりますから、ここに住んだわけではないと知ってちょっと失望…
ついでながら、このお城で確かに暮らした有名人は、イグナシオ・デ・ロヨラだそうです。 まだ十代だった1506年ごろ、当時のアレバロ城主の小姓としてここで働いていたそうです。
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10時「開門」のはずが、管理人は10時過ぎてから、あたふたと小走りにご出勤。 その後もなかなか開けてくれないので、先にお城のまわりを歩いてみます。
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もう6月ですが、やっぱり北に行けばいくほど、アマポーラがたくさん咲き残っていますね!
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簡素なつくりの良いお城です。 まわりをとり囲むように茂る、金色の小麦と燕麦、深紅のアマポーラは、大昔から何も変わっていないのでしょうね。
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カトリック両王の死後は、牢獄や石切り場(むざん…)、麦のサイロなどとして使われてきたそうですが、今はぴかぴかに修復されています。 今日は土曜ですが、今のところ観光客は計4名のみ。静かでたいへんけっこうです。
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この旅さいしょのお城ですが、急な石階段の上り下りに、早くもうんざり。 宿六は意外にも、いわゆる「ヨーロッパのお城」に来るのは初めてだそうで、とても嬉しそうですが。
外は晴れて暑いのに、城内では石とレンガからじわじわ冷気が伝わってきて、背中がぞ〜っとします。 やはりお城は、平時にわざわざ住むところではなさそうですね… 年がら年じゅう火を絶やさないようにすれば、少しは居心地いいのかな?
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アレバロ城から外を眺めると、ただ麦畑が広がる単調な平野です。 こんな退屈な風景を見ると、またついつい、「私はどうなってしまうのだろう」と窓辺でたそがれる、若いお姫様を想像したくなります。が… 十代から冷静極まりなかったイサベルが、そんなひよひよしたお姫様だったはずがないのですよね。
イサベルと一緒に暮らしていたポルトガル王家出身のお母さんだって、タダものではなかったのですし。 王妃時代には、自分の子供たちの未来を考え(平たく言えば、先妻の息子エンリケを押しのけたくて)、夫の寵臣を罠にはめ、死に追いやったほどの女性です。
夫フアン二世の死後は、精神に異常をきたした、とされていますが、四六時中おかしかったわけでもないようです。 ですから宮廷という、命がけで生きねばならない小世界について、またそこでの処世の知恵などを、子供たちにじっくり語って聞かせる機会も、きっと多々あったのではないかと思います。
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お城から見たアレバロの集落。
小さな集落ですが、「イサベルたち母子は長兄に疎まれ、片田舎に追いやられていました」とも言い切れないようです。 というのも、地の利がとても良さそうなのですね。
アレバロ城も、今は高台にぽつんと建って無防備に見えますが、実際にはお城と集落は二つの川に挟まれており、防衛上も満更でもなかったようです。 また、アビラやセゴビア、メディナ・デル・カンポといった、当時のにぎやかな町々とも至近です。 げんにアレバロは、ユダヤ人口が際立って多かったそうで、それだけでも商売が盛んだったことがしのばれます。
フアン二世は地位と全財産を長男エンリケに譲りましたが、アレバロだけは特別に、イサベルのお母さんに残しています。 アレバロの町は代々カスティーリャ王妃の所有となることが多かったらしく、たぶんそれは、わるくない税収入が見込めたからではないでしょうか。
後年、長男エンリケに反旗を翻した幼い次男アルフォンソも、その「宮廷」をアレバロに置いています。 (それからわずか三年後、かわいそうなアルフォンソ君はとつぜんの病(たいへん疑わしい急病)で亡くなってしまうのですが…)
なお、カトリック両王の孫たるカルロス五世も、大切に思っていたらしき女性に、ここアレバロの所有権を贈っています。 その女性というのが、イサベルの夫フェルナンド王の姪孫であり後妻でもあった、アラゴン王妃ヘルマーナ。 「おじいさんの後妻」、つまり「義理のおばあさん」を、孫が愛人とし、娘もひとり生まれた、というにゃんともいえないお話ですが、ほんとこの一族は辿っていくとキリがないですね…
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きのうアビラの博物館で、近年アレバロから出土したという品々を見ました。
写真は食器の破片。きれいな金色、銅色に輝く、ラスター彩を施したものが多いです。 当時アラゴン王国で作られていたぜいたく品、のちにヨーロッパ中で大流行するマニセス陶器です(うう、バレンシアのマニセスも行ってみたい…) これも当時のアレバロの、意外な繁栄ぶりを物語っているのかもしれません。
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特にこの、王冠模様のお皿がいいですね! 単純な柄だけれど力強くて、焼いたうずらを並べたり、アビラ名物仔牛肉でもどんと載せたら、よく映えそうです。 15世紀の陶器だそうですし、イサベルは即位後も母のいるアレバロをひんぱんに訪問していましたから、親子水入らずの食卓を飾ったお皿かも?しれませんね。
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やはりアレバロ出土の、カトリック両王発行の銀貨。 ハプスブルク家の銀貨もひとつ混ざっています。
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アレバロの広場なども気になりましたが……時間足りなくなりそう。先を急ぎましょう。
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麦畑の中をとっとこ走ると、まもなくメディーナ・デル・カンポに到着。 この地名、明らかにイスラム起源と思われますが、土地のガイドさんのお話では、残念ながらはっきりしたことはわかっていない由。
町に入るだいぶ前から、四角四角した厳めしいモタ城が見えて、宿六のテンション急上昇! 平地のお城というのもいいものですね。しかもここには、歴史上の変な…いえいえ、普通ではない特別な方々がおおぜい関わっているので、私も楽しみです。 中でもピカイチは、カトリック両王の後継ぎであり、のちに狂女王と呼ばれたフアナでしょう。
フアナは徹底して、家族運に恵まれなかった人です。 兄と姉、甥っ子が次々と早世したせいで、優秀すぎる両親から王位を継ぐという、思ってもみない重荷を負わされることになっただけでも、じゅうぶんかわいそうですが、夫がまたひどかった。
ハプスブルク家のフェリーペ美公(ザ・ハンサム公)という、女性となると見境がない上、政治的にはきわめて小ずるく、妻フアナの情緒不安定につけこむことしか考えていない、この時代のサイテー男です。いやすぎて、むしろちょっと好きかも。
次男を妊娠中のフアナは、このすてきな夫からカスティーリャに置き去りにされ、心の均衡を失い、数年間モタ城に幽閉されます。 母イサベル女王は、後継者たるフアナを手元に留め、正気に戻るのを見届けたかったようですが、さいごはあまりの乱心ぶりに、ネーデルラントの夫のもとへ帰ることを許したようです。 その半年後にはイサベルは亡くなりますから、それが母娘の今生の別れとなったのですね。
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堂々たるモタ城。 チェーザレ・ボルジアが閉じ込められていたのが、左の塔。
その後、フアナとほぼ入れ違いに幽閉されたのが、チェーザレ・ボルジア。
イサベルとフェルナンドに、「カトリック両王」なる有難い呼び名を与えた(というか実際は高く売った)のは、ローマ教皇アレクサンデル6世。つまりチェーザレのお父さん。 そして後年、チェーザレをここに幽閉したのが、フェルナンド王。 それだけでもカルマが渦巻いてますよね、その後の転生で、みなさんちゃんと解消できたかなっ?
モタ城は見るからに堅固な城砦ですが、さすがはチェーザレ・ボルジア、この高い塔から飛び降りてみごと脱出。(そのあとまもなく、31歳にして空しく戦場に散るわけですが…)
しかしフェルナンド王の考え次第では、チェザレが戦場でもう一花咲かせる、なんていう可能性もあったのかもしれません。 ちょうどこのころフェルナンド王は、人気がありすぎて気にくわないフェルナンデス・デ・コルドバ(El Gran Capitan)の首をすげかえたがっていたようですし。 この時代は、強烈な個性の持ち主が多いので、パラレルワールドの夢想もたいへんよくはかどります。
そうそう、癖のある人物というと! ペルーを侵略したピサロ兄弟のひとりで、たしか唯一(でしたっけ?)スペインに生還したエルナンドも、1540年から20年間モタ城に幽閉されていたそうです。そうだったのかー もっともその間に、インカの血すじの姪と結婚し、大勢の子供が生まれ、また別の女性とも子供を作っているので、それなりに生産的な幽閉生活だった模様。
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モタ城の入り口に掲げられた、いつものカトリック両王マーク。まだグラナダ陥落前の、ザクロ模様が入っていないもの。 王様なんてものは、顕示欲の塊であることが、周囲からも期待されていたとは思いますが… それにしてもしつこい。この紋章好きだったんですけど、ちょっと鼻についてきました。
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攻撃するつもりで眺めると、非常に取りつきにくそうなお城です。 ただレンガ作りというのは、一見もろそうに思えますが、どこか壊されてもすぐ修復できる、という利点があるそうです。
モタ城のだいたいの形を完成させたのはイサベルのお父さんですが、ここまで堅固にしたのはカトリック両王だそうです。 右に見えている堀も、昔は水が満たしてあった由。 チェーザレはそこを泳いで逃げたのでしょうか。テレビドラマなら、ずぶぬれハンサムは古典的な良い場面になりそうですね。
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ここは観光客でいっぱいです。 まだ夏休み前の土曜日、ほとんどは近隣から、はとバス的ツアーで来ている国内旅行者のようでした。おかげであの塔に登るツアーは、満員で参加できず。
かわりにお堀に面した通路(かつて大砲が設置されていたところ)を案内してもらいます。 手前の格子でふさがれた穴は、地下牢につながっています。 たぶんここから、囚人を優しくえいっと突き落としたりとか、したのでしょうね。なんて良い時代でしょうね。
でも宿六は、薄暗いこの場所がたいへん気に入ったようです。 「どうも既視感があるなあ…ここを走り回ってたような気がしてならない」と何度も言います。 ふだんその手のことを言わない人が、急にこうして語り始めると、妙に説得力あるなあ…
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十字架型の飾りがついた銃眼。 ここから撃たれたら、まっすぐカトリックの天国に行けるように?いかにもカトリック両王らしいすてきな偽善!…と一人で喜んでおりましたが… 調べてみると、クロスボウ(十字弓)や大型弩砲用の銃眼は、ふつう十字架型なのだそうです。 この十字架型は、実用なのか装飾なのか、わかりませんけれど。
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レンガの色も好ましい、賑やかな雰囲気のメディナ・デル・カンポの町。
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広場近くに、イサベル女王が逝去した、思いのほか小さな館があります。
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イギリスの古城の幽霊みたいな、変な彫像が指さす先が入り口です。 イサベル女王はここで遺言を口述したのち、1504年11月26日に53歳で亡くなりました。
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イサベルさいごの署名 Yo la Reyna
館内には、イサベル女王の遺言の、よくできた複製が展示されています。 幸いページごとに解説がついていたので、眺め入ってしまいました。
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これはまさに、イサベル女王の生涯さいごの、心配リストです。
心もとない娘フアナにかわり、父フェルナンドが必要に応じてカスティーリャの政治をみること。 フアナと夫のフェリーペが仲良く暮らして、フェルナンド父さんを尊重すべきこと(と言っても無駄なのに悲しいねえ…)。
そのほか、自身の埋葬方法と場所について、念のため第四希望(!)まで並べたこと細かな指定。 残していく借金の心配。 自分および亡くなった臣下のための、それぞれ2万回(!)のミサの要請。 自分と亡き母の使用人への細かな配慮。年金の支給の要請。 北アフリカのイスラム勢力との戦いを続けるべきこと。「新大陸」で布教すべきこと。また同地の住民を人道的に扱うべきこと。などなどなどなど。
家庭内から新大陸まで……読むだけで息苦しくなるような、膨大な心配事が並んでいます。 しかしこれを、息も絶えだえで口述して、いったいどれほどの意味があったのでしょう。 状況はつねに移り変わっていくので、地上に残った者たちの、その時々の判断こそがいちばん正しくはないでしょうか。 去っていく者も、あとの心配などしなくていいのです、残った者はちゃんとそれなりに、必ずなんとかやっていくのですから。
でもイサベル女王は、自分があまりにも賢く、よく気づく人だったので、親族の欠点もわかりすぎていたのでしょう。 本音では、自分以外だれも信頼できなかったのかもしれません。
「この子は自分ほどはパっとしないかも…」といった親の迷いは、口にしなくても相手にはしっかり伝わっているものです。 フアナの身に起こった多くの不幸も、悪循環が始まるさいしょのきっかけは、「母の不安」だったのかもしれません。もちろんどんな運命も、あくまで選ぶのは自分自身ではありますが。
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二階に、イサベル女王の死の床、なるものが再現されていますが、いわゆる「これはイメージです」ですね。 何度も改修されたため、この館は当時の面影をまったくとどめていないようです。 とはいえ、確かにこの壁の内側の空間で、イサベル女王は息を引き取ったわけです。 また驚いたことに、夫フェルナンドのお父さんもお祖父さんも、この同じ館で生まれているそうです。そうか、結局みんな親戚ですものね。
今日、いちばん面白く感じているのは、まさにそのことです。 当時のカスティーリャとアラゴンでは、身内同士で敵対したりくっついたりを、それもごくごく近所で互いにやりあって、大騒ぎしていたのですね。
イサベルはアレバロにいた幼少期から、賑やかな市の立つここメディナ・デル・カンポが好きで、しばしば訪れていたようです。 また11歳ごろには、兄からセゴビアの宮廷に呼ばれてアレバロを後にしますが、そのセゴビアだってほんとにすぐそこですものね。アレバロからセゴビアまで今の道なら60キロ、馬に乗って常足で休み休み行っても、一日あれば着くでしょうか。
有名観光地をまわる物見遊山旅行は、「ほんとにする意味があるだろうか?」と、毎回うっすら疑問に思います。 でも少なくともこういう距離感は、ここまで足を運ばないとピンときませんね。
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次は常足の馬なら半日の距離にある、トルデシーリャスへ向かいます。
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陽射しが照りつける満開のレタマから、むっとくるほど甘い香りが立ちのぼっています。 わがペルーのクスコやワンカーヨでもよく咲いていますが、もちろんあれはスペインから、おそらく穀物などに紛れて持ち込まれたレタマの末裔です。
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あっというまにトルデシーリャスに到着。 水量の多いドゥエロ川沿いに開けた、明るい印象の小さな町です。 歴史のほうは明るいばかりではありませんが…
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それにしてもこんな田舎町(失礼)で、スペインとポルトガルで地球を山分けにする条約を結んだのかー。 いい気なもんですよね、ちょっとおかしさがこみ上げてきます。
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もう3時。おなかすきました。 車が停めやすい川沿いのレストランに、さっと入ります。
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生ハム&アーティチョーク炒め。 アーティチョークは缶詰ですが、意外においしいです。これいい考えですよね。
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サラダも暑いのでおいしいですが、野菜の味は、やはりアンデス斜面産には遠く及びません。
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仔豚肉のオーブン焼き。これは文句なし! しかしスペインの人もフライドポテト好きねえ。私たちは味見だけ。
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食事の文化面も大切なので、今日はデザートも少し。 あれ?昔のスペインの印象より、だいぶ甘さが控えめなような??
旅のあいだは少々なら甘いものをとっても、食後に眠気も起こらず、何も問題なさそうです。 とはいえほとんどのデザートには小麦粉が入っているので、選択肢はあまりないですね。
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4時を過ぎても、外はから揚げ状態の暑さです。だれも外を歩いていません。 かわりにイタリア国旗ペイントの、かわいいアルファロメオ君にあいました。
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聖クララ修道院の鐘楼のコウノトリ。 ヒナも二羽見えています。
聖クララ修道院には、カトリック両王が宮廷を置いていた時期もあるそうです(生涯を駆け回って過ごした人たちなので、「カトリック両王の元宮廷」は山ほどありそうですけど)。
イサベルの死後まもなく、今度は1506年にフアナの夫、フェリーペ・ザ・ハンサム公が死去します。 妻フアナがカスティーリャ女王に即位したのを利用して、権利のない自分も無理やり王として即位、好き放題を始めてわずか五か月後の、なんとも怪しい頓死です。 下手人としてもっとも疑わしいのは、こいつのせいでカスティーリャ執政権を失ったフェルナンド父さんですが、フェリーペ美公を始末したい人は、たぶんほかにも大勢いたことでしょう…
まあ本人は、いったん天国に戻って、猛省してから出直せばいいだけですが、ひたすらかわいそうなのはフアナ。 愛というよりは強迫神経症的に夢中だった夫の死去で、完全に打ちのめされてしまったようです。 そして、この聖クララ修道院の近くにあった王宮に、46年に渡って幽閉されることとなったのは、あまりにも有名なお話。29歳のときから、1555年に76歳で亡くなるまでの、気の遠くなるような年月です。
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この暑熱でも、フアナの46年を想像するだけでうそ寒くなってきます。 (ただ当人の身になってみると、はたからは不幸に見えても、魂が異次元融合していて意外に平気だったのかも?そうでもなければ、46年も生きられない気がするのです)
ところで、フアナの晩年に思いがけない人物が、親しく立ち会ったことを初めて知り、少しほっとするような気持ちになりました。 人格者で知られるフランシスコ・デ・ボルハ(のちに列聖)が、フアナの息子カルロス君の命で、何度もフアナのもとを訪ねていたそうです。この人は、フアナ女王は決して気など狂っていない、という証言も残しています。
このサン・ボルハさんがまた、非常におもしろい血すじなのですよね… 父は、教皇アレクサンデル六世の庶子(チェーザレの兄)の息子。 母は、フェルナンド王の婚外子の婚外子。
要はアレクサンデル六世とフェルナンド王という、とんでもない狸おやじ二名の、共通の曾孫です。 このような、けっこう淀んでいそうな血すじに、聖人と呼ばれる人がぽっと生まれる、というのも興味深いことです。
フアナ幽閉の館が消失した今では、彼女と夫が最初に埋葬された聖クララ修道院は、フアナを偲ぶにふさわしいところです。 でもほとんど写真を撮らせてくれないのが、とても残念です。壁画の細部などじっくり写したかったのですが。 また有名なフアナのオルガンも写せず、買った案内書にも載っていないので、ネットで写真を探してきました。オレンジ、緑、金色で彩られた華やかさが、いよいよもって哀しいですね。
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川向うから見たCasas del Tratado de Tordesillas 右の塔は聖アントリン教会
同じ川沿いに、トルデシーリャス条約調印の舞台となった館があります。 今年で525年、記念日の来週6月7日には、ここに条約原本がやって来るとかで、博物館の人たちは気もそぞろのようでした。
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館内は、解説パネルが飾られているだけです。入らなくても良かったかも? ただ、このドゥエロ川の滔々たる流れを見ながら、二国代表があれやこれやと討論し、それから批准に至ったのか…と想像するのは楽しいです。 もしこの条約がなければ、あるいは山分け線の引き方が違ったら、今ごろ私はポルトガル語で暮らしていたかもしれませんし。
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夕方6時、トルデシーリャスの広場は閑散としています。 珍しく宿六がお土産がほしいと言います、「世界山分け地図」の複製を探したいそうです。 やはりペルー人にとって、トルデシーリャス条約は特別に感慨深いものがあるようです、勝手に山分けされたほうの末裔ですものね。 そこでお土産品店を探して少し歩きましたが、バルしか開いていません。まスペインでは、お約束の状況ですね…
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トルデシーリャスのとなりは、スペインで一番人気のベルデホ・ワインの産地、ルエダです。 Rueda、Ruedaって、ラベルではよくお目にかかりますが、こんなところに位置していたのですね。
11世紀にはすでに、この界隈でベルデホ種が栽培され、醸造されるワインも名高かったとか。 ということは、トルデシーリャスで交渉中のスペイン・ポルトガル両国代表も、その進展をメディーナ・デル・カンポから見守るカトリック両王も、ベルデホで一息ついていた可能性がありそうです。ならば少し買うとしますか。
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無数の酒屋さんが並んでいますが、ハハハハ…やっぱみんな閉まってる。 夕方の再開店時刻になっても、お店の人がぜんぜん戻ってこない、ってスペインではよくありますね。 食事とって昼寝して、目が覚めてもこんなに暑かったら、そりゃ仕事になんか戻りたくないよね。
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思わず手が出る宿六。
良かった、一軒だけ開いてました。 店主さんは店の裏に住んでいるので、ルエダでほぼ唯一?年中無休の酒屋だそうです。 地元の小さな農家が作った、そこそこ飲めるワインがどれも5、6、7ユーロくらいなので、宿六は大喜びでたくさん買います。 旅のあいだに全部飲みきるつもりなのでしょうか、この運転手は……
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葡萄畑は、道路沿いのをチラ見しただけですが、ゆるやかにうねる丘陵に広がっているようです。 遠目にも、石ころだらけの土壌とわかります。 今はベルデホが売れて売れてしょうがないので(景気良くていいねえ!)、どんどん新しい苗が植えられているそうです。
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MADRIGAL DE LAS ALTAS TORRES
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試飲でさらに出来上がって、上機嫌でさいごに寄ったのが、イサベル女王が生まれたマドリガル・デ・ラス・アルタス・トーレス。 「いくつもの高い塔のマドリガル(14世紀の抒情的流行歌)」という、おとぎ話めいた地名ですが、起源はわからないようです。塔がたくさんあったのは、まちがいなさそうですけれど。
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人口1800人ほどの小さな集落で、まったく期待していませんでしたが、町を丸く取り囲む城壁が、崩れながらもあちこちに残っています。 なんだ、なかなか良いところじゃないですか!
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立派な門も、四つも残っています。 ほど良い崩れ加減がたまりません!
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そういえばスペインに来てから、やたらと飛行機雲が目につきます。 (リマは年の半分は曇ってますし、空を横切る便数も格段に少ないですから、それで飛行機雲をほとんど見ないのかな?)
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イサベルのお父さん、フアン二世時代に建てられた王立病院の前で、結婚の記念写真を撮る人たち。前撮りというのかな? ほかにはだーれもいません。
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フアン二世の館。この静かな静かな村に、宮廷が置かれていた日もあったのですね… 中にはイサベル生誕の部屋もある由ですが、もう夕方8時、閉まっていて入れません。
ここはのちに女子修道院となり、城壁外にあった別の修道院(写真右→)から、尼さんたちがぞろぞろ引越してきました。 その中に、フェルナンド王と愛人とのあいだに生まれた、二人のマリアという女性も入っていたそうです。
さらには、フェルナンド王の後妻ヘルマーナが、義理の孫たるカルロス五世との間に生んだ娘も、この二人のマリアと暮らしていた…という説もあるようです。もしそれが本当だとしたら、フェルナンド王の子と曾孫(同時に「姪孫の子」でもある)がいっしょに生活していた、ということですね…ややこしいなあ。
今でもしーんとしたところですから、当時はそれはそれは静かな修道生活だったことでしょう。 それにしましても、王さまやら皇帝やらの庶出の娘というのは、ずいぶんと切ない立場ですね、修道生活にしても、果たして本人たちが希望したものだったのやら? ただ、さんさんと日の当たる身分に生まれたフアナも、ああして死ぬまで幽閉されたのですから、結局運命に大差はなかったのかもしれません。
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マドリガルの城壁を出てすぐのところに、廃墟となった聖アグスティン修道院が、辛うじて、という感じに建っています。 二人のマリアを含む尼さんたちが、左←の城壁内に越したあと、同じ聖アグスティン会の男子修道院に変わったところです。
今はぼろぼろで想像もつきませんが、当時は「カスティーリャの(もうひとつの)エスコリアル修道院」と呼ばれるほどの規模と文化度を誇っていたそうです。 人文学者であり神学教授であり、アビラの聖テレサの著作出版にも力を尽くしたフライ・ルイス・デ・レオンも、1591年ここで亡くなった由。
この方、当時はご法度だった聖書のカスティーリャ語訳&注釈書きをしたせいで(じっさいには、ラテン語が読めない尼の従妹のために私的に訳したものが、流出してしまったようですが)、異端審問にかけられ牢屋にぶちこまれ、五年近く過ぎてからやっと釈放。 そして五年ぶりの授業で、なにごともなかったかのように平然と、「きのうお話ししたように…Dicebamus hesterna die...」と語り始めた、という逸話が有名です。しんそこ浮世離れをしていたのか、それとも多少気取りもあったのでしょうか。
後年、アグスティン会カスティーリャ管区長として、この修道院に就任したときも、わずか九日後にはポックリ亡くなって、人々を大いに驚ろかせたそうです。 なにやら茶目っ気すら感じてしまいますが、実際にはどんな人だったのでしょうね。
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麦畑しかない平地を走って、アビラへ帰ります。 ふしぎと名残り惜しくて、一度車を停めてもらって振り返ると、マドリガルの集落がかわいらしく見えています。 この「寒村」と呼んでも許されそうなところから、エゴも業績も失政も、その後の世界への影響も悪影響も、すべてがとてつもなく大きかったあの女性が生まれたのですね。
昔はマドリガルも、イタリアのサン・ジミニャーノのように、細い塔が林立していたのでしょうか。 いま遠くからも目を引くのは、聖ニコラス・デ・バリ教会の高い塔だけです。
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その塔にも、もちろんコウノトリが巣をかけていました。 イサベルが生後まもなく洗礼を受けたのは、この教会でのことだったそうです。
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小さな集落をいくつか通ります。 どこでもいちばん高い屋根の上には、もれなくコウノトリ。
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小麦サイロの上にも、サスペンションがきいてそうなご立派な巣がひとつ。 もしかして耐震構造なのかも…
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空の色が深くなってきました。 今日も一日、暑かったなあ。
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次の集落は、エル・アホ(定冠詞つきニンニク)。これはまた香り高い地名ですねえ。 (集落を出るときの、赤で地名を打ち消したこの看板が、ペルーの赤ダスキに見えてしまう私はさいきんちょっと重症)
カンタブリア地方には、定冠詞なしのアホ(ニンニク)という集落があり、「住民がものすごくニンニク好きで、村がニンニクのにおいで充満していたのでそう名付けられた」という伝承がある由。 でもこちらのエル・アホの起源はわかりません。
マドリードの南西には、セボーリャ(玉ねぎ)という地名もありますね。 ニンニク玉ねぎはスペイン料理の基本中の基本、たぶんわるい意味あいではなさそうですね。
道はこのあと、イサベル女王のかわいそうな弟アルフォンソが、14歳で息を引き取ったカルデニョサの近くも通りますが、時間切れで割愛。いずれにしても、何も残ってはいないようですが。 姉のイサベル女王は、イベリア半島じゅうを駆けめぐる生涯でしたが、アルフォンソ君のほうは本当に狭いところで、その短い一生を終えたのですね…
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夜9時。アビラが夕日で金色に輝く時刻に、うまく戻って来れました。 日本の姉にこの写真を送ると、「こんな古くからの眺めがそのまま残っている、ということが、東京にいると本当に信じられない」とすぐ返信が来ます。 城壁がかくも見事に残っている、とはすなわち、近世以降の発展から、完全に取り残されていた、ということですね。(リマなんぞも、少し無理して城壁を残しておけば、もう少しは見どころのある観光都市でいられたでしょうに…)
アビラもカトリック両王の曾孫、フェルーペ二世の時代までは宮廷が置かれ、また聖テレサの登場で文芸的にも華やかだったようです。 しかし16、17世紀のペスト流行やモリスコ追放あたりから、がっくりと人口が減っていったとのこと。 そして今も、「スペインで最も人口の少ない県都のひとつ」という、妙な名誉?に浴しているそうです。
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午後9時20分。 私はもうお宿に帰りたいのですが…宿六はどうしても夜景が見たいようです。 そうですね、もうこんな時刻だし、じきに照明も灯るでしょうから、しばらく待ってみましょうか?
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9時36分。やっとうっすら夕焼け。 今か今かと照明を待っていると、少しじりじりしますが、でもこの暮れなずむ感がいいのですよね。 いつも同じ話をいたしますが、赤道が近いリマでは、日暮れ時はパチン!とスイッチを消したように、もう一瞬で暗くなるので味気ないのです。
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9時45分。 とうとう照明がつきました。でもまだ空が明るくて、はっきりとは見えません。 チラっと宿六の顔を見ると、「まだ帰りたくない」と書いてあります。 ふだん私の言いなりになりすぎる人なので、こんなときくらいはご希望尊重いたしましょう。
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さらに15分経過。 少し光が浮かび上がってきました。宿六君、そろそろこのへんで良しとしませんか?
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そうこうするうちに、もう10時。 あと少し待てば、空も真暗になって城壁が引き立ちそうですが…純粋に眠い。 明日はトルヒージョまで移動ですし、今度こそ宿に戻らなくては。 日が長い夏の旅は、良いことばかりと信じていましたが、「夜景がなかなか見られない」という大問題があったのですね!
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アビラでは車で戻りながらも、こうして今しばらく、城壁を眺められるのがすばらしいです。 快い初夏の宵のこと、こんな時刻になっても、城壁まわりをのんびり散策する人たちがちらほら。この旅行中は、私もそういうのんびり時間も取りたいな。
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Googleマップが歩行者モードに変わっていたせいで… 通り抜けできない広場で立往生。
宿へと急ぐ途中、宿六が私よりGoogleマップを信じたせいで(いい度胸じゃないか!)、道に迷って30分も余計にかかりました。 こんなことなら、もうしばらく夜景見てても良かったなあ!
ところで、今日あちこちまわって、少なからず興ざめだったのは、2012年からスペインで放映されたテレビドラマ「イサベル」の写真が、ほうぼうに飾られていたことです。 「平等院に行ったら、道長と頼道を演じた俳優の写真がどーんと貼ってあった」みたいなもので、そりゃないですよねえ…
ドラマの内容のほうは、おおよそ史実に沿っていましたし、あまりひどすぎる嘘もなく(「娯楽作品なんだから仕方ないよね」と言える程度の作り話だけ)、ドラマ「メディチ」なんぞの無茶苦茶に比べれば、まったく上等でした。
が!カトリック両王隠れファンの私としましては、どうしても耐え難いミスキャストがあり、それが準主役のフェルナンド王です。 ドラマ初登場時のフェルナンド君は、まだ16、7歳だったはずなのですが………
ロンドンの博物館に、ちょうど17歳ごろと推定される肖像画があります。 1500年代に原画から模写された絵だそうですが、後年フェルナンド王が激しくおっさん化してからの肖像ともよく似ており、本人の特徴をとらえている可能性は高そうです。 もしかしてもしかすると、原画はイサベルなどお妃候補に贈るため、お見合い写真がわりに制作された肖像画だったのかも?しれません。
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17歳ごろのフェルナンド王子(のちのフェルナンド二世) 古い肖像画を参考に、少し想像もまじえて描いてみました。
手に入ったのは小さな白黒写真だけですが、「いつも微笑んでいるかのようだった」という少し釣った目元など、わずかな線で表情豊かに描いてあるようです。 試しに色鉛筆で描きうつしてみますが、ややしもぶくれ気味の、長い顔立ちですね。 大きな鼻や、ぼってりとした口元など、美貌ではないもののいかにも強運そうです。 でも当然ながら、まだどこから見ても少年らしい姿です(…その少年時代から子供を作ってた人ではありますが!)
ところがですね、テレビドラマでは16歳の王子様役として、のどまでヒゲだらけの四十男が出てきたんです…あれは本当にガックリきました… せめて王子時代の場面では、ヒゲ剃ってよ!…とも思いましたが、その俳優さん、なんでもスペイン一の美髭(El mejor bigote de Espanha)?を誇っているらしく。きっと契約書にも「ヒゲはぜったい剃らない」とあったのでしょうね。
そして今日も行く先々で、イサベル役よりふたまわりは歳上に見える、ヒゲおじさんのお顔と遭遇。 そのたびに若き日のフェルナンド君の、私の脳内イメージ(だいたいこの絵の感じ)で上書き更新するのが手間でした。
そんなミスキャストのせいで(俳優さんに罪はないです)、若きフェルナンド王子の立場の微妙さが、ドラマではまったく描けていないのも残念でした。 フェルナンド君は、自分よりずっと大きな国の年上女房のもとへ、ほとんど入り婿状態で駆けつける羽目となり、アラゴンの国益のためとはいえ、本人としては実になんともいえない感があったと思うのですが…
まあそれはともかく、チャンピオンズ・リーグに押されて急いで計画したアビラ行、おかげさまで大正解でした。 イサベル女王という史上の遠い人物が、とても身近になったように感じます。 いずれ機会があったらアラゴン王国内も旅して、フェルナンド君とももう少しお近づきになりたいものです。
明日はグレドス山脈をこえて、エストレマドゥーラ地方へ向かいます。 今日はおしゃべりが過ぎましたね、おつきあいくださってありがとうございます。 ではおやすみなさい!
<旅はつづく>
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