<代官山・同潤会アパートの日々>
1964年〜1970年

 パチャカマックの庭の緑が茂るにつれて、渋谷の代官山にあった緑濃い同潤会アパートのことを、あれやこれやと思い起こすことが多くなりました。
 もう半世紀もむかしの思い出です。
 今は遠くリマにいて、手元に写真もありませんが、幼時のおぼろな記憶をたよりに、あの懐かしい鬱蒼とした緑を描いてみたいと存じます。



<その5 大雪の日曜日>

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 大きな雪だるまが作れるほどの雪が、代官山ではよく降りました。
 気象庁の記録にも、1967、68、69年と三年続きで、20センチから30センチの積雪を東京でみた、とありますから記憶ちがいではないようです。


 深夜、木々に雪が降り積もるにつれて、ふだんから静かな代官山の森は、ますます周囲の音をよく吸い取るようになり、すぐ下の東横線の踏切の音までとても遠くなってしまいます。
 静まり返った中で、走り去る列車のかすかな警笛を枕辺に聞きながら、旅の空の心細さのようなものを、子供ながら感じました。


 でも一夜明ければ、代官山中が遊園地です!
 代官山公園わきの(子供には急な)坂は、魅惑的な特大すべり台となり、小学生のお兄さんたちは大はしゃぎ。
 でも踏み出す勇気のない私は、上からこわごわ眺めるだけです。


 ほどなく祖父と父も、長靴を履いていそいそと家から出てきて、大雪だからみんなで雪だるまを作ろう、ということになりました。
 忙しくてめったにいない父が、このときは確かに在宅でしたから、もしかして日曜だったのでしょうか。
 東京で最深21センチの積雪を記録したという、1967年2月12日は日曜だったようなので、もしかしたらその日の記憶なのかもしれません。


 父に教えられ小さな雪玉をころがし始めたものの、すぐ私の手には負えなくなりました。
 あとは大人たちのまわりを飛びまわって、ぶかぶかの黄色い長靴で、きれいな新雪をいたずらに踏みにじるばかり。
 でもそれが、なんと心地よかったことか。


 欲張って遠くまで転がして、うんと大きくした二つの雪玉を、大人ふたりがよっこらしょと重ねて、頭にはバケツを載せて…
 でも眼鼻には、いったい何を使ったのでしょう?


 姉は幼いころを米国で過ごしたので、鼻はあちら風にニンジンだったかもしれません。
 また雪だるまの目は、むかしから炭団と決まっていますが、姉に聞いてみると、わが家には七輪も炭団もなかったとか。
 ただ当時はまだ、小学校には石炭ストーブがあったそうなので、ふだん面倒くさがりなおじいちゃんが急に張り切って、どこからか石炭を二個調達してきてくれた…
 という、いかにもありそうな情景が浮かんできました。


 家族(ほぼ)全員大はしゃぎの、楽しい大雪の日曜日。
 でもやっぱりこのときも、濡れるのが大きらいな母と犬のエリーだけは、少し離れたところに留まって、ちょっとうんざり顔でこちらを眺めていました。
 猫そっくりな気質の母と犬なのでした(^^)



(2019年1月30日 記)



<その4 1967年のクリスマス>


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 お菓子がつめこまれた、しわしわの銀紙製のクリスマス・ブーツ。
 いつものお菓子も、このブーツに入っていると特別の味がします。


 イチゴ入りケーキの上には、バタークリームの白とピンクのバラ。雪景色だけど、バラはおいしそうに満開です。
 でもいちばんおいしいのは、たまごの黄身のように丸く絞り出した、甘いあんずジャム。
 サンタのろうそくが溶けて、ケーキに少しこぼれたところも、クリスマスらしい香りがたまりません。


 なんて豪勢な、1967年のクリスマス。
 でもこれでおしまいではありません、このあとみんなで夜のドライブに行って、帰ったらサンタのプレゼントが待っている、かもしれません。



 ケーキの横にはいつも、父が米国で買ったという、かわいい雪だるまのろうそくがありました。
 家族みんなが、なぜか宝物のように大切にしていたろうそくです。
 24日の晩、ケーキを食べる前に一瞬だけ火を灯し、でも顔が溶けたら大変なので、ただちに吹き消す、というのが、わが家の謎のならわしでした。



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 あの頃のクリスマスは、銀紙とモールと、少し錆びの入ったガラスビーズのオーナメント、手の中ですぐパリパリ...っと砕けてしまう吹きガラス玉…
 そういった、世にも儚い品々で出来上がっていました。


 いちばん丈夫で長持ちしたのは、当時すでに古めかしかった、1950年代のクリスマスライト。
 3、4センチほどの五色の電球で、プラグを差し込むとまず全部が点灯し、ジーー…っと震えるような音を出し、ややあってゆっくりと点滅し始め、しだいにその間隔が早まっていきます。
 今でも、その年さいしょのクリスマスソングを耳にすると、温まるのを待ってからゆっくりまたたき始める五色の電球が、まず目に浮かんできます。


 ライトが熱くなるにつれて、狭い部屋にはモミの葉の良い香りがたちこめます。
 冬至に姉が生まれたとき、初孫を喜んだおじいちゃんが、小さな本物のモミの苗を買ってきました。
 それが長年、わが家のクリスマスツリーだったからです。


 12月になると、とつぜん大事に飾られるモミの木でしたが、ふだんは忘れ去られて肥料ももらえず、小さすぎる鉢の中で育ちあぐねて、縮こまっているようでした。
 幸い後年、小淵沢の土におろすことができ、ほっとしたところまでは覚えています。


 その後、あのモミの木がどうなったのか、急に気になって先日姉に聞いてみました。
 すると今では、見上げるほどの大木に育ち、代官山の手狭な部屋にぴったりだった、小さな小さなクリスマスツリーのおもかげは、もうどこにもないそうです。


 むかし、あのクリスマスツリーを囲んだ家族の中で、今も健在で話が通じるのは姉だけになってしまった、と思っていました。
 でも肝心のモミの木も、達者にしていてくれたのですね。
 いつの日かまた小淵沢を訪ねることがあったら(父が亡くなってからは、物悲しくて行かないようにしていましたが、今はもうぜんぜん平気なので)、あのモミの木にはぜひ会って、「何十年ぶりかしらね!大きくなったねえ!」と一声かけてきたいです。



 24日の晩はケーキを食べたあと、フォルクスワーゲン・ビートルにすし詰めになって、銀座のイルミネーションを見に行くきまりでした。

 出がけに必ず母が、「そうだ、サンタさんがうちに入れないと困るから、小さな窓をひとつあけてくるわね」と言って、いったん家に戻ります。
 今から思えば、そのとき子供たちへのプレゼントを、押し入れから出して並べていたのですね。
 そんな細かなお芝居のおかげでしょうか、姉はなんと小学校六年までサンタさんを信じていたそうです。



 代官山の暗い森からはるばる出かけると、銀座はなおのこと輝いて見えました。
 光で飾られた大きな建物は、どれも現実味のない、華やかな書き割りのようでした。
 あいにく雪には変わらなかった氷雨、でもそのおかげで、しっとりぬれた道の上でもイルミネーションが輝いていました。


 幼なすぎてどんな「電飾」があったか、よく覚えていないのは残念です。
 でもどれも、白熱電球の暖かな光だったのはまちがいありません。


 LED全盛のいま、きっと明治の人がガス灯を懐かしんだのと同じように、私は白熱電球のクリスマスを懐かしんでいます。

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(2018年12月18日 記)


<その3 特等席>

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 週末ごとに、父が大きなスポンジで念入りに磨き上げる、黒のフォルクスワーゲン。
 ひなたできれいに乾いて、ぽかぽか温まったワーゲンによじのぼり、バンパーに腰かけているのが好きでした。
 漆黒の車体には、空や太陽や代官山の木々が、まぶしいほど鮮やかに映っていました。



(2018年8月8日 記)



<その2 階段のメダカ>

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 私の家族の住まいは、代官山アパートの三号棟です。
 東横線の踏切を渡って、木下闇の坂を少しのぼって、やはり薄暗い、でも春には桜がきれいな代官山公園を過ぎると、そのすぐ左手です。
 三号棟には一階と二階に二軒ずつ、計四軒が入っていて、うちは一階の右側の、小さな庭付きアパートでした。


 ほかの三軒にどんな人たちが住んでいたのか、あのころはあまりに子供だったので、ほとんど思い出すことができません。
 たしかうちの真上には、やや年配の、穏やかな優しい奥さんがいらした、ような気はします。


 狭くて薄暗い一階で暮らす私には、住棟のまんなかの階段は憧れの的でした。
 階段の奥は暗くて少しこわいけれど、もしのぼっていけば、上には何か、とんでもなくすてきな明るい空間がありそうに思っていました。
 いつかきっと、自分も二階にあるおうちに住もう、と願っていました。


 階段の両脇には、出入り口を飾る植え込み用に、コンクリートで四角い箱が作ってありました。
 三号棟ではその片方の土を掘り出して、かわりに水で満たしてありました。
 夏に深くて暗い水をのぞくと、よく茂った金魚藻のあいだを、和金やヒメダカが泳いでいました。


 用もなく階段を上り下りすることは、母から厳しく禁じられていました。
 でも小さな私は、階段を一、二段はのぼらないと、水の中を見ることができません。
 そこで母に見つからないように、息をつめてそっと一段登っては、水の上に屈みこんで魚たちを眺めるのが、春から秋までのだいじな日課でした。


 中にどういうわけか、片目しかないメダカが一匹、混じっていました。
 大人たちは、「近所の悪い猫がメダカをとろうとして、でもメダカがあまりに素早かったので、片目をとられただけで済んだのだ」などと言っていましたが、猫を飼ってみればわかります、そんなことあるはずがありません。
 どうして大人というのは、こういう意味のない作り話を、何かというと子供にしたがるのでしょう。


 でもそのころは、その話を丸ごと信じました。
 ずいぶんな思いをした気の毒なメダカなのだなあと、いたく心を打たれ、台所でお麩のかけらをもらっては、できるだけ片目のメダカの口に入るように、気をつけて落としてやっていました。


 昭和40年代の東京は、今よりずっと寒かったので、冬になるとこの水槽には厚く氷が張って、金魚もメダカも底のほうに隠れてしまいます。
 冬のあいだも片目のメダカが心配で、春を待ちかね何度ものぞきに行った覚えはありますが、いよいよ春が来て再会できたかどうかは、なぜか記憶にありません。


(2018年7月31日 記)



<その1 バラの生け垣>


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 みごとなバラの生け垣で、まわりをぐるりと囲まれたおうちがありました。
 ただ「バラのおうち」、と呼んでいたような気がします。
 初夏、姉から「バラのおうちに行こう」と誘われると、熱中していたおもちゃも絵本も放り出し、大喜びでついていったように思います。


 あの生け垣は、いったいどうやって仕立ててあったのでしょう。
 ミニバラやつるバラを、みっしりと絡ませてあったのでしょうか。
 むこうが透けて見えないほど、風通しもわるく薄暗いほど葉が茂り、それなのに生き生きとしていて、少しバラを作るようになった今もその秘密はわかりません、


 花ざかりには、ピンクや白や薄黄の花が咲き乱れ、色彩はもちろんのこと甘い香りもすばらしく、飽かずながめていると、いつも奥からおうちの人が出てきて優しく声をかけてくれるのです。

 「あら、また来たのね、お花は好きなだけとっていいのよ。
 でも棘があるから、ほしいだけこのハサミで切っておいきなさい」


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 小さな両手をお椀にし、持てるだけ持って帰ったバラは、つぼみを選り分け、姉言うところの「芸術品」作りに使います。
 少しもったいぶった手つきで、学校で使う透明なふで箱を空にした姉は、中にバラのつぼみをすきまなく並べ、水を少し注いでふたをします。


 姉は色の並びにこだわりがあるので、私には手を出させてくれませんでしたが、「芸術品」なのだからしかたない、と思っていました。
 七つ年上の姉は、三、四歳の私には大人としか思えず、姉のすることは、いつも感心して見上げていました。


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 姉の作品は、翌朝やっとできあがります。

 水と初夏の陽気のおかげで、どのつぼみも夜のあいだに開きはじめ、朝にはふで箱いっぱいに咲き誇っています。
 そのみずみずしさは、ふで箱のふたを持ち上げんばかりで、すきまからは甘い香りも漂います。


 内側につく水滴までが美しく、あれは本当にすてきな芸術品でした。


(2018年7月17日 記)


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