イタリア 2024 トップペ―ジへ戻る
ペルー談話室 玄関に戻る
(2025年1月17日)
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![]() Cava二杯目で、もう少し元気が出てきました。 甘いものだらけのイタリア滞在に備え、少し糖質に身体をならしておきますか… ミネラルウォーターの青い壜がまた、たまらなくスペインです。空き壜をくすねて行きたかったのですが、三週間の旅の前から荷物を増やすわけにもいきません。 |
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![]() ローマ行き便が無情に飛び立ちます… 大好きな秋色のスペインを、恨めしく眼下にながめつつ… |
![]() マドリードのすぐ北の、いい感じのゴルフ場上空で、東のほうへ旋回します。いやむしろ西のポルトガルに行こうよ… |
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![]() そしてトリーリョ原発(Trillo)の、禍々しい二本のけむりを遠くに見ながら… |
![]() タラゴナTarragona上空でスペインとさよならです。その前に、ローマ時代の円形劇場におろしてもらえませんか…… とっぷり暮れた地中海をゆく途中、明かりの乏しい集落が、ぽつりぽつりと見える陸地の上を飛びました。あれはたぶんサルデーニャ Sardegna島だったのでしょう。 まもなく真黒な海のむこうに、イタリア沿岸をふちどる白い光が見えてきて…さすがにちょっとばかり感動です、なにぶん31年ぶりのイタリア半島です。 |
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![]() マドリードからはわずか二時間あまり、あっというまにローマ到着です。 手持ちのイタリア語で、とりあえずタクシーは無事拾えました。運転手さんは時速140キロですっとばし(いいの?)、これまたあっというまにローマ市内のお宿に到着。 イタリアのタクシーというと、昔はだまされて当然…くらいの気持ちで、身構えて乗った覚えがあります。でも今は、空港からローマ市内まで定額制なんですね。おかげでとても気楽でした、ありがたいことです。 |
![]() 最初のお宿は、バチカンとサンタンジェロ城にはさまれた、ボルゴ地区 Rione di Borgo。 レストランや小さないやげもの屋さんが、控えめに並ぶ静かな通り沿いです。 |
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![]() オーナーさんの案内で中に入ると、殺人事件が似合いそうな長い通路があります。 借りたアパートはここの一階です。スペインでは、民泊の階段でさんざ苦労しましたから、その経験をいかして慎重に選びました。 |
![]() 玄関を入ったところ。 |
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![]() 玄関のすぐ先に、「お付きの人の控室」風の、小さな寝室とシャワー室があります。 滞在中、ここにスーツケースや衣類を盛大に広げておきました。ほかの部屋が散らからなくて快適です。 |
![]() その先に台所。 古い建物らしく、床板が少々きしんだりはしますが、きれいに維持されています。暖房もしっかりきいています。 |
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![]() 台所の先に、大きな居間があります。いい部屋なのに、LEDの冷たい光がちょっと惜しいな… ガラス戸の向こうに庭が見えていますが、もう暗いので、明朝お目にかけます。 |
![]() さて、居間からくるりと振り返ると、右手奥に寝室があります。さきほどの台所と、背中合わせの位置関係です。 |
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![]() どこもきれいに磨かれて、マットレスも快適で、申し分のない寝室です。 奥には、さらに廊下と大きなメインのバスルームがあります。お湯もたっぷりで問題なしです。 このアパートの唯一の欠点は、広すぎて、荷物を探して行き来するのがめんどうなこと。 玄関の壁をこわして、メインバスルームとドアでつないで、巡回できるようにしたらもっと暮らしやすくなりそう、などと勝手に改装案を想像中… |
![]() オーナーさんの説明をひととおり聞き、そのあと少し荷ほどきしたら、もう夜10時前。 まだ外食可能な時刻ですが、そこでワインでもあけたらさいご、すぐ午前様になってしまいます。それに明日は、ローマ観光は初めての宿六のために、早朝からバチカン美術館に行かなくてはなりません…(私はものすごく行きたくない…) そこで今夜のところは、近くのスーパーCarrefourにひとっ走り。 親の代にポーランドから来ました、というかわいい店員君が、ニコニコと話しかけてきます。おお、私もなんかイタリア語、わかるなあ! (日本人とペルー人という、少々異色な組み合わせのおかげで、その後もあちこちで「いったいどこの人?」と聞かれ、それが雑談のきっかけになって便利でした) お宿に戻って、トマトやチーズで一杯飲んで、すぐ休みます。 オリーブオイル、ワイン、生ハム、モッツァレラの安さに、すっかりごきげんの宿六は、いつものように即熟睡。私もいつものように、時差で眠れぬ夜をすごします。 |
![]() 朝になりました、お宿の紹介を続けます。 空が明るむと、居間にふたつある坪庭が急に生きてきます。 |
![]() この家は、南側が14メートルもの高い壁でふさがれています。そのためまだ庭は薄暗いままです。 ぱっと見はただの古壁、でもこの壁こそが目当てで、ここを予約したのでした! |
![]() なぜならこの古壁、Il Passetto di Borgoの一部なんです。 パッセットとは、命の危険にさらされた教皇たちが、バチカンをこっそり抜け出し、城砦サンタンジェロ城へと逃げ込むための、大切な脱出用通路のことです。 ピンクの線がその「パッセット」で、古い城壁の上に作られています。長さは約800mで、ここのおうちはバチカンとサンタンジェロの、ちょうど中間あたりですね。 歴史上、何人の教皇がここを通ったかはわかりません。でもごく有名なのは以下の二名様。 まずは、スペイン出身のアレクサンデル六世 Papa Alessandro VI。聖職者の腐敗があたりまえだった当時においてなお、誰もが驚くほどのくされ加減を発揮したお方。 国際政治的にもコウモリ教皇で、なのでほぼ自業自得ですが、1494年フランス軍によるローマ侵攻の憂き目に遭遇。アレクサンデル六世は、パッセット内部の通路を使って、ほうほうの体でサンタンジェロ城へ逃げ込みます。 ついで、スペイン・カトリック両王の孫カルロス君による、悲惨なローマ劫掠が起きた1527年。フィレンツェのメディチ家出身のクレメンス七世 Papa Clemente VII が、同じ通路を使って逃げています。 そのときの教皇の足取りが、あまりにもよろよろと弱々しかったため、「小さな歩幅」パッセットと称されるようになった、という説もあるようです。 右上の写真は、バチカンで撮ってきたアレクサンデル六世の肖像画です。 ごらんください、このゴテゴテぶり。きっと自分で、真珠や宝石を描けるだけ描き込むよう、指示したんでしょうね。そういう人です、アレクサンデル君は。 でも、どんなことでも徹底している人は、私は大いに評価します。なのでこの人物も、嫌いすぎてむしろ好きです。 当時はほかにも、フィレンツェの僭主メディチ家のロレンツォ様、怪しい坊さんサヴォナローラ、ブルドーザーのごときカトリック両王、異端審問所長官のトルケマダ、ハプスブルグのマクシミリアン一世、お嫁さんの頸切りが趣味の英国ヘンリー八世…などなど、半端ではない顔ぶれがゴロゴロしています。 しかもそれぞれが複雑に関わっていて、もう目移り必至のおもしろすぎる時代です。 |
![]() ついでながら、つい先日の2024年12月24日に、ローマで始まった「聖年」 Giubileoですが… イベントの目玉になっているのが、サン・ピエトロ寺院の封鎖された「聖なる門」 Porta Santa di San Pietro が、ありがたくも開かれること。 で、そこを通った巡礼者はすべての罪が許され云々…という次第ですが、それを最初に思いついたのが、このアレクサンデル六世。まったくその事実だけでも、ありがたさ倍増ですね… 「聖年」というたまらなく中世めいたものが、いまだに盛大に祝われていることには、おもしろさとあほらしさの両方を感じます。 そもそもの始まりは西暦1300年。ボニファティウス八世 Bonifacio VIII(名高いアナーニ事件のあと憤死、とむかし暗記させられた教皇)が、「聖年」なるものを発案したそうです。 そしてはじめは百年ごとと定められましたが、そのあとすぐに50年、35年、25年と、どんどん短縮されています。聖年のたびに、教会および関係者一同がとっても儲かるから、でしょうね。 ことし2025年はまた、ニカイア公会議(第一回)Concilio di Nicea の1700周年にも当たるそうですね。 ニカイア公会議といったらあーた、初期キリスト教の魂というべきものを抹殺し、単に人々をコントロールするための教会組織の基礎を作った公会議である、と私はおおざっぱに認識しています。そしてその流れの先で、アレクサンデル六世のような人物も出てきたわけで。 近年のカトリック教会は、不都合な事実が次々と明るみに出て、火消しに大騒ぎですが、果たして次の聖年は、同じように祝うことができるのでしょうか。 |
![]() さてお宿の庭に戻りましょう。 狭い庭ですが、大きな枇杷の木が満開で、和菓子のような甘い香りがしています。またお隣からは、鈴なりのオレンジの枝が垂れ下がっています。 晩秋のいまは、薄暗いのもあって寒々しいですが、夏の夜など、ここで一杯飲んだらたいへん居心地良さそうです。 このおうちに泊った幾晩か、時差で目覚めるたびに、右の教皇庁のほうから二人の教皇が現れ、左手のサンタンジェロ城に向かってよろめき去っていく様子を、何度も何度も思い描いておりました。 そのときのご両人の恐怖とくやしさは、ちょっとやそっとではなかったはずで、今もこのあたりに、その思いが亡霊のようにうろついていても、不思議はなさそうです。 またローマ劫掠の際、さほどの人物でもない教皇のため、みすみす犠牲となったスイス衛兵も、このあたりに思いを残しているかもしれません… |
![]() パッセットの壁からお宿を振り返ると、こうなっています。オーナーさんご自身も、十年間ここで暮らしたそうです。 二階はテラスつきの、すてきなアパートのようです。そこからのパッセットの眺めは、さぞいいでしょうね。 |
![]() お宿の外に出てみましょう。 ずっしり重い扉が入り口で、カギの開け方には、ほぼドロボウ並みの手際が必要です。オーナーさんが懇切丁寧に説明してくれました。 ペルー人ゆえ、そういうのには慣れっこの宿六は、一回でコツを飲み込み、オーナーさんからえらく褒められました。ここは喜んでいいとこなのだろうか? |
![]() 扉のすぐ向かいに、水汲み場 Fontana Acqua Marciaがあります。19世紀に古代ローマのマルキア水道が修復されて、このあたりまで水を引いた時のものらしく。 「ローマでは飲料水は、そのへんで汲むものです。買っちゃだめです」 そうオーナーさんに教えられたので、何度もここで汲んでコーヒーを淹れました。おいしい水でした。共同の泉なんて、地方の村のようでたいへん風情がありますね。 |
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![]() パッセットを辿って左(西)に進むと、サン・ピエトロ広場 Piazza San Pietro の柱廊にぶつかります。 この先パッセットは、スイス衛兵の詰め所まで続いているようです。ローマ劫掠のときに、百数十人もの衛兵が殺されたところですね… |
![]() また右(東)へ進むと、奥に見えるサンタンジェロ城 Castel Sant'Angelo に、じきに辿り着きます。 |
![]() 先ほどせっかくアレクサンデル六世を召喚しましたので、ついでにカンポ・デ・フィオリ広場 Campo de' Fiori にも、ちょっと寄ってみます。 広場から数歩のところの、この建物。もとは雌牛亭 Locanda della Vacca (もしくはオンドリ亭)という宿屋でした。ま、実態は、高級あいまい宿かと。 カンポ・デ・フィオリはサンピエトロ寺院への巡礼路上にあるので、宿屋は大繁盛だったようです。 この雌牛亭を仕切っていた大柄な金髪美人、ヴァノッツァ・カッターネイ Vannozza Cattaneiが、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿 Caldinale Rodrigo Borgia(のちの教皇アレクサンデル六世である…)の、特別にお気に入りの愛人でした。 一説によると彼女は、ボルジア枢機卿とのあいだの四人の子を、ここで出産したようです。 あの有名な策士チェザレ・ボルジア Cesare Borgia も、謎めいた美女のルクレツィア・ボルジア Lucrezia Borgia も、ここで生まれたのだとしたら、なんと生産性の高い宿屋なのでしょう。 |
![]() この建物にも、民泊として貸し出し中のアパートがあります。 説明によると最上階なので、おそらくむかしは使用人の控え室か、いちばん安い部屋だったのでしょうか。 今はもちろん、イタリアらしい凝った装飾が施されたアパートで、借りるかどうか一週間ほど悩みました。狭い階段を、スーツケース持って三階分は上れない…ということで諦めましたが。 外壁には、さきほどのヴァノッツァ女史の紋章が残っています。 雌牛亭にちなんだ牛のほかに、ボルジア家の紋章、カッターネイ家の紋章、さらにはヴァノッツァの三人目の夫の紋章まで組み合わされています。 いわゆるよくある、全部載せ紋章です。 ヴァノッツァの過去二回の結婚は、枢機卿との子らの出自をごまかすための、契約結婚でした。 また紋章に残る三度目の結婚も、やはりボルジア枢機卿の手配だったようですが、相手のCarlo Canale氏はなかなかの文化人で、ヴァノッツァの連れ子たちのこともかわいがってよく教育したそうです。 いっぽうヴァノッツァも、枢機卿とはごく円満に別れたおかげで、その後も夫の出世に役立つコネなどを、今や教皇たる元愛人から引き出せたりもして、つまり要するに四方めでたい良い結婚だったみたいです。なんとなくいい話。 |
![]() カンポ・デ・フィオーリは、14世紀ごろまではほんとに花畑だったため、それがそのまま呼び名となったそうです。 現在も花屋さんが一角を飾って、それらしい雰囲気をかもしだしています。でも14世紀以降のここは、まったくお花畑どころじゃなくて… まあヨーロッパの広場は大抵そうですけど、ここでも公開処刑がひんぱんに行われていました。中でも有名どころは、ここで燃やされた哲学者ジョルダーノ・ブルーノさん Giordano Bruno。 19世紀になって、陰鬱きわまりない彫像(右の写真)が設置されたそうですが、こういうことはしないほうがいいですよね。 広場の雰囲気も薄暗くなるし、ご本人の魂としても、とっとと忘れたい過去を(火刑の過去はだれでもいやだと思う…)、わざわざ形にされてしまうと、そこに思いが留まってしまいそうです。 |
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(2025年2月22日)
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![]() 地図じたいどれも見ごたえがありますが、細部の描き込みがまた楽しいです。 お茶目な顔の怪魚?怪海獣?に抱きつかれ、沈没しかけているこの帆船、よくみるとただの縮尺なんですね。凝ってますねえ。 |
![]() こちらも縮尺図。人魚たちが引く筏の上にたなびいています。 |
![]() どの地図にも丁寧に描かれた、青い海と緑青色の波が目にさわやかです。 描画担当者によって、出来不出来はあるようですが、このあたりは波の自由な動きがよく描けています。海鳴りが聞こえてきそうです。 |
![]() これから行くシチリア島の地図がありました。 でもなんとなく変?と思ったら、南北がさかさまです。たぶん教皇庁から見おろした図、ということなんでしょうね(本質的にそういう人たちですもんね) |
![]() GoogleEarthと比べると(これも南北ひっくりかえしました)、1580年!に描かれた地図の、気味わるいほどの出来ばえがわかります。 |
![]() こちらはイタリア半島全図。 |
![]() 半島全図も、いまのGoogleEarthとあまり違わないんじゃ?と思うほどの完成度。 いったいどれだけの時間と労力を費やして、海岸線のデータを蓄積したのやら。 |
![]() シチリア島の北では、ストロンボリ火山もちゃんと煙をあげています! |
![]() イタリアで、宿六が行ったことがあるのは、S字の大運河でそれとわかるヴェネツィアと… (イタリア語はスペイン語と違って、「V」のカナ表記をどうするかが、悩ましくもめんどくさいです。バチカンは、今さらヴァチカンとしなくても良さそうだけど、ベネチアはヴェネツィアのほうが合うような…まあその時々の気分で決めましょう) |
![]() フィオレンツァことフィレンツェと… |
![]() それからアッシジ。その三か所だけです。 どこも当時は、治安の良さで有名な街でしたので(今は知らない)、おそらく宿六の頭の中のイタリアは、ひたすら優にやさしき国なのではないかと思います。 なので今回の目的地、いろいろといわくつきのシチリア島は、宿六の目にはどう映るでしょうか。 |
![]() 地図のギャラリーだけで私はもう満足しました。本音ではもう帰りたいです。しかし宿六は、なんでもざっと一通りは見たい人。 「バチカン美術館をざっと一通り見る」のが、どれほどたいへんか、知らないからそんなこと言えるわけですが、まあできる範囲でつきあいましょう。 すでに疲れた足取りでよろよろ進んでいくと、ぶつかったのが「ボルジアの間 Appartamento Borgia」。「間」といっても14室からなる続き部屋で、かのアレクサンデル六世の居室だったところです 例の肖像画もここにあります。俗っぽく着飾って、自分の息子!それも四人!といっしょに、平気でキリストの復活に立ちあっているという、この神経の太さ。いいですねえ。 |
![]() 床は、好みだなあと思ったらやっぱり、15世紀スペインのタイルでした。 アレクサンデル六世の生地からも遠からぬ、バレンシアのマニゼスManises製。 |
![]() ロドリーゴ・ボルジアが教皇になってすぐ、1492年から1495年のあいだに、これらの壁画が描かれたそうです。この時代の絵はいいなあ。緻密だけれど、ルネサンス盛期のような生々しさがなくて。 この女性は、父親によって幽閉されていた塔から、信仰のため逃亡するニコメディアの聖バルバラ。それがきっかけとなり、さいごは父親の手にかけられて殉教しました、というお話… |
![]() そしてこちらは、遠目には白く美しく見えたので、望遠で撮ったみたところ、スプラッター絵画でした。 ばらばらにされたオシリスの遺体を集めるイシス、のようです… |
![]() ローマ皇帝の前で、五十人の賢者たちを論破する、アレクサンドリアの聖カテリナ。 結局はそれがきっかけとなり、殉教しました、というお話…。そんなのばっかりだ。 |
![]() 左の聖カテリナ像が、アレクサンデル六世の娘、ルクレツィアのおもざしを留めている、という説が人気のようです。 真偽のほどはともかく、当時の典型的美人像なのはまちがいなさそう。よく見ると、かぶりものや後ろの柱が、下地を盛って立体的にしてあるのがおもしろいですね。 |
![]() アレクサンデル六世が亡くなった寝室で。でかでかと名前を記してあるこれは、もと暖炉? |
![]() 天井は、金色でごってごてに塗り込まれた組み木細工。 スペインの香りがあっていいんですけど、でもこんな重苦しいものを見ながら息を引き取るのは、なんかいやだなあ。 |
![]() 「ラファエロの間」の前室あたりで見た壁の装飾。 いわゆる大作名作より、 こういう職人仕事のほうが好き。 「ボルジアの間」のあとに、バチカン美術館の目玉作品群を見ましたが、省略します。 ミケランジェロが描く人体は、もったりとした質感が気色わるく、またラファエロの落ち着きのない色使いも苦手です。 でも元・哲学徒の宿六は、ラファエロの「アテナイの学堂」を嬉しそうに眺めていたので、まあ一応立ち寄って良かったす。 |
![]() 山羊の脚のファウヌスとファウナ? 擬古風の絵が、いかにもローマらしくていいな。 システィーナのほうは、41年前とはまるで雰囲気が変わっていました。 当時は私語厳禁で、水を打ったような静けさが強く印象に残っています。作品じたいより、人々が大作に示す敬意のほうに、よほど感動しました。 あまりにも静かなので、元・秘曲ミゼレーレが、天井あたりから響いてきそうでした。 今は警備員さんが、男性にだけ帽子をとるよう声をかけていましたが、それだけでした。ざわざわした話し声が止むこともなく、携帯でちょこちょこ隠し撮りする人もいたりで。 今は、なにもかもが俗っぽくなってしまう時代ですね。それには良い面も多々あるわけですけれど。 |
![]() エトルリアのワイン壺(Vulci出土、紀元前4世紀) 人間をずたずたに引き裂くグリフィン君。 このあとは、バチカン美術館の無数の収蔵品のうち、持って帰りたかった小品を少し。 宿六がどこもかしこも見たがるおかげで、たしかにいろいろ発見はありました。 |
![]() ロバの頭型の盃。これいいな! 酔いのまわりが早くなりそう。 (Vulci出土、紀元前5世紀) |
![]() 金の腕輪 (Cerveteri出土、紀元前7世紀) |
![]() ぱっと見にはわからないほどの、細かな細かな粒金細工。おそろしい。 古代エジプト風の身なりの女性が、ヤシの枝でしょうか、長いものを手にして並んでいます。 |
![]() 金の大型ブローチ(fibula) (Cerveteri出土、紀元前7世紀) これも粒金細工で覆われています |
![]() 豪華すぎる安全ピン エトルリアものは非常に気になりますが、今度の旅ではとても手がまわりません。なのでここバチカンで、少しでも見られたのは良かったです。 ま、ほんとは少しどころか、山ほどあるのですが、多すぎて、記憶に残ったのは数点のみ。 エトルリアの遺跡と博物館だけでも、少なくとも旅行まるごともう一回分、必要ですね。 |
![]() 時代が一気に下がりまして、大好きな中世の、大好きな象牙や七宝細工も、ぞろぞろ出てきました。でもすでに、見物許容量をこえております… |
![]() こんな見事な七宝細工の箱(おフランス、13世紀)を、うさんくさい聖遺物入れにしてたのかー。 |
![]() さいごに、初期キリスト教徒の世界へ。 このたびのバチカン美術館イヤイヤ訪問で、ここがいちばんの拾いものでした。 だれにでも不思議と気になる時代、というのがあると思います。私は初期キリスト教徒と聞くと、わけもなく悲しいような懐かしいような、ちょっと泣きたいような奇妙な心持ちになります。今回の人生では最初から、キリスト教とはきちっと袂を分かったのですけれど。 |
![]() 左の写真の、煤の付いた素焼きのランプも、大いに郷愁をかきたてます。 でもいちばん魅了されたのが、この金彩ガラス。 もとはガラスのカップやお皿の底を飾っていた装飾で、家族の肖像画や聖人像など、さまざまな図柄があります。 持ち主の死後、しばしば金彩の部分だけ割り取って、カタコンベの目印や墓標がわりに!使ったのだとか。 |
![]() ガラスの上に金箔を貼り、それを削って肖像画を描き出し、上からもう一枚ガラスを載せて固定した、との説明ですが… でもこのような、写真と見まごう繊細な肖像画も、同じ作り方だったのでしょうか?ちょっとピンときません、資料探さなくては。 |
![]() こちらの金彩ガラスのような、単純な図柄なら、左記の製法で大いに納得できるのですが。 |
![]() この禿頭は明らかに聖ペテロ、とするとおとなりは聖パウロ。 組織としてはすばらしいけど、魂は失われた「いわゆるキリスト教」を作り上げたお二人ですね。 金彩ガラスをカタコンベの墓標に使うときは、こんなふうに底だけ割って、漆喰でえいっと固定したようです。なかなか荒っぽい。 |
![]() こちらも同じ二聖人。モデルはだれであれ、薄青いガラスの上の金色が美しいです。 金彩の部分は、大抵直径10センチ前後。小さなものです。 |
![]() 濃い青のガラスだと、なお美しいですね! |
![]() 数センチの小さなものも。 銀化したのを指輪にしたい。 |
![]() あら……たけしさん…? |
![]() 3世紀ごろの「ミッレフィオーリ*」ガラスの破片もありました。 (*)金太郎飴式に作られた花模様ガラス。 |
![]() そのほか印象に残ったのは… 16世紀の天球儀に描かれた、躍動的でとっても楽しそうなオリオン。 |
![]() こちらの地球儀は、わがリマが古式ゆかしくLos Reyes(諸王の都)と表記されています。 |
![]() 展示作品だけではなく、壁のだまし絵にも魅力的なものがありました。 |
![]() 大理石模様も、窓じたいもだまし絵。 こんなのうちの壁に描きたいな。これくらいなら、見本があれば描けそうな気がする。 |
![]() 星をちりばめた濃紺のドアカーテン。これも描いてみたいけど、根気がもたないか。 |
![]() ところで、これはバチカン収蔵品ではありませんが、あとでおかしなものをお目にかけますので、少々おつきあいください。 細部にいたるまですばらしいこのモザイクは、ポンペイ出土(Museo Archeologico Nazionale di Napoli蔵) 猫と格闘中のヤマウズラ、下段のカモやさまざまな食材が(猫以外はみな食材…)、すべてつやつや生き生きとしています。 |
![]() 次にこちらは、ローマ近郊出土の猫モザイク(Museo Nazionale Romano 蔵) さきほどのとよく構図が似ていて、ポンペイの友人の豪邸で猫モザイクに感心した人が、ローマに戻ってから、記憶を頼りに作らせたのかな…なんて想像をしたくなります。 これだけ見ると、じゅうぶんよくできたモザイクです。でもポンペイ版には遠くおよびません。 猫の瞳が、ただのまんまる、つまり「ほんとには猫を知らない人が描きがちな瞳」になっていますし、下段にあった魚や貝、優雅なロータス(正確にはスイレン)も、難しいので?省略しちゃったようです。 |
![]() そしてさいごに、バチカン美術館にある、この猫モザイク(出土地不明)をご覧ください! なぜこれがバチカンに…と驚くほどの、場違いなへたくそ加減に、目が離せなくなりました!でもどこかで見たような気もして、あとで調べたら前の二作が見つかりました。 この三点を並べると、ずるずると質が落ちていく過程がよくわかります。当時からえーかげんなコピー商品って、あったようですね。あるいは、お値段しだいで仕上がりが違ったのかもしれません。 で、よりによって落ちるとこまで落ちたバージョンを、教皇ピウス六世が大切に蒐集品に加えたおかげで、今ではバチカン美術館に麗々しく飾られている、というのが愉快です。 この劣化最終形態版と比べると、左のモザイクは、猫が捕まえているのがヤマウズラなだけまだマシだった、ということがわかります。 バチカンのほうでは、ニワトリになっちゃってますから。ローマ時代でも、ヤマウズラのほうが高級食材でしょうから(ジビエですもんね)、安いニワトリをモデルにしてお茶を濁したのかな? また食材のはずのカモも、パタパタ飛び立っちゃってるし、意味不明なリンゴは大きすぎるし、すべてバランスが悪くてわけのわからない構図です。 でもたまらなくかわいいです。 今日はご立派なものを山ほど拝見させていただきましたが、このへたくそモザイクがいちばん目に焼き付いています。まあそんなもんですね人生は。 |
![]() 美術館や博物館は、やっぱり苦手。疲れ果てました。そこで遅い昼食は、なにも考えず、お宿の向かいの料理店へ。 スペインのレストランだと、まずグラスが運ばれてきて、カチャカチャ澄んだ音をたてると、それだけで「ああ、とつくにに来たのだなあ!」と嬉しくなりますが、なぜかローマではその現象、起きませんね。海に近いぶん湿気が多くて、それでガラス器の音もくぐもってしまうのかな? |
![]() 体調がどう転ぶかわからないので、まだパスタはやめておきましょう… でも少しだけ粉に身体を慣らすべく、とりあえず魚介フライ。 ペルーにはおいしい魚介類がいくらでもあるのに、こういうあっさり軽いフライ、だれも作らないんですよね、長年の謎です。 |
![]() それから牛とトマトの炒め煮、のようなものをとりました。 おいしいのですが、なぜかロモ・サルタード(ペルーの牛炒め料理)の風味があって、変に思ってましたら… あとで顔を出したシェフが、ペルー人でした!(笑) ワンカーヨ出身で、もう18年もローマで料理人をなさっているそうです。スペイン語だとたちまち元気が出て、会話がはずみます。 |
![]() 旅行中は、 甘いものはどんどんいきます。 小麦はまだ様子見中。 |
![]() テキパキしたフィリピン人のウェイトレスさんも、ペルー人シェフも、私にとっては、異国暮らしのお仲間みたいなものです。 故郷を遠く離れて暮らす人たちからは、古いしがらみを断ち切ったすがすがしさのようなものを、感じることが多いです。 |
![]() 今日もおいしい水を汲んでから、お宿に戻ります。 私には長すぎる一日でした、昨晩からねてないし。 でも宿六は上機嫌で、あすは朝いちばんにサンタンジェロ城に行く、とはりきっています(泣)。オペラ好きなので、トスカが飛び降りたところを見たいのでしょうね。 しかたない、明日もたぶんつきあいます。今夜もし眠れたら。 |
(4)サンタンジェロでも拾いもの
(2025年3月14日)
![]() パッセットの壁君、おはよう! 今朝は、バチカン同様ここから歩いてすぐの、サンタンジェロ城 Castel Sant'Angelo へ。 |
![]() サンタンジェロ城の入口には、だれも並んでいなくて、すぐ中へ入れました。(たとえ夏場のハイシーズンでも、早朝のサンタンジェロは穴場らしいですね) 遠くから見ると堂々たる要塞ですが、内側に入って驚きました。ローマ時代に遡るレンガ作りの基礎は、黒ずんでぼろぼろで、あちこち大きく崩れています。長年のあいだに、何度も攻撃された場所ですから、そのときの傷跡でしょうか。 |
![]() お、また出た、アレクサンデル六世。 うすぐらい一角に、無造作にまとめて掲示してあり、なんの説明書きもありません。よほど「余ってる」のかな、アレクサンデル君の大理石製名札は。 |
![]() 城砦のまわりをほぼ一周、ぐるっと歩かされてから、いったん地下へ。 |
![]() ピラミッドの中に入ったような(入ったことないけど)、いやな圧迫感があります… あやしいと思ったら、やはりハドリアヌス帝の霊廟だった部分とのこと(紀元139年完成)。その後、カラカラ帝までの歴代皇帝の墓所として使われたそうで、「骨壺の間」なんてのもあり、薄気味わるいので急いで通り抜けます。 ローマは何度も掠奪の憂き目にあっていますから、どこかの時点で、皇帝たちの遺灰も失われたようですが、それでも何かが残ってますね、ここには。 私は霊感はありませんけど、「長居は無用な場所」だけはすぐピンときます。 |
![]() 階段をたくさんのぼって、明るい場所に出てほっとします。 千数百年に渡って、好き勝手な増改築が繰り返されたせいで、現在のサンタンジェロ城はたいへんややこしい作りになっています。 ごちゃごちゃとして統一感がなく、美しい場所とは言えませんね。遠くから眺めるだけでは、まったく想像できませんでした。 |
![]() でも、テベレ川の見晴らしはいいです。晩秋の色がすがすがしいです。 この川にも、数えきれない人々、もしくはそのご遺体が放り込まれてきたのでしょうけど…どこの国でも大きな川は、そんなものかな? |
![]() おなじみパッセット(教皇たちの脱出路)も、すぐそこに見えています。 右側が、サンタンジェロ城にくっついている終点部分で、左奥にはパッセットの始点、バチカンのサンピエトロ寺院が見えています。えらく近いですね。 |
![]() 迷路のような内部を、順路に従い、わけもわからず上ったり下りたりするうちに、「教皇クレメンス七世の居室 Sala di Clemente VII」なるところに到着。 1527年のローマ劫掠の際、パッセットを通って命からがら逃げた、ちょうど気になっていた教皇です! |
![]() クレメンス七世は、ここで七か月の長きに渡って籠城し、スペイン兵とドイツ人傭兵に蹂躙されるローマを、なすすべもなく見おろしていた、ということですね。 まあでも、ローマよりもフィレンツェの実家、メディチ家の命運のほうが、よほど心配だった人ですから、はたで想像するよりは大丈夫だったのかも。 この部屋に置かれた家具は後世のもので、天井のクレメンス七世の名入り装飾だけが、当時のものだそうです。 自分の名があちこちにデコデコ書いてあるのは、権力者にとって嬉しいことなんでしょうか? もしそうなら、むしろ本当の自信の欠如を物語っているような気がします。 |
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![]() 入り組んだサンタンジェロ城では、無数の小部屋がさまざまな展示に使われています。なぜかマルチェロ・マストロヤンニの写真展示もありました。なんか楽しい! 若いときから無二の個性に恵まれていたお方ですが、60歳を過ぎてから「黒い瞳」で演じた、救いのないちゃらんぽらん男、本当にすばらしかったです。 その出演者たちのスナップもあり、ちょっと得した気分。左はしが、うんと老人風に作り込んだマストロヤンニ氏です。 |
![]() また「マルケ州出身の教皇たち」という企画展示もあり、この肖像画に目を奪われました。いやこれは、誰か知らんけど相当にわるい奴でしょう、ぜったいに!この目つきはふつうじゃない! …と思ったら、「珍しくバリバリ仕事をこなした教皇であった」と評されるシクストゥス五世でした。 |
![]() わずか五年余の在任中に、向こうに見えるサンピエトロのクーポラを完成させ、またローマのあちこちに悪趣味なオベリスクをおったてたのが、シクストゥス五世。 また自らの即位式典に、天正遣欧少年使節団を華々しく招待したのも、シクストゥス五世。 |
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![]() 黄葉が進むプラタナスの梢のむこうに、パンテオンの丸屋根も見えています。サンタンジェロ城の原型だった、ローマ皇帝の墓所と同じに、ハドリアヌス帝によって計画された建築物です。 パンテオンの黒ずんだ古代セメントは、私はどうも気味わるくて苦手です。(このあと近くを通りましたが、入口に観光客の長蛇の列ができていて、宿六も入る気を失ったので助かりました) |
![]() さて、サンタンジェロ城ではもうひとつ、すばらしい拾いものをしました。 古代アプーリア地方…現在のプーリア州北部(ブーツ型のイタリア半島の、かかとあたり)の出土品の展示です。 この旅の目的のひとつは、ローマより前の、大ギリシャ時代のイタリア(Magna Graecia)。今回は、シチリアのギリシャ植民地だけチラ見する予定ですが、この展示のおかげで、半島南部の出土品も鑑賞できるとは、嬉しい偶然です。 なお、これはあとから知って、ガックリしたんですけど、この展示、ブラジル、チリ、メキシコと巡回して戻ってきたところだそうです。 やれやれ…いつもペルー抜きですね、こういうのはぜったいペルーには来ないんですよね。確かに今どきのペルー人が、この種の展示に興味を持って、わざわざ足を運ぶとは思えませんけど… |
![]() カーネリアン、ガーネットなどで飾られた金の冠 (Canosa出土、紀元前3世紀〜前2世紀初頭ごろ) |
![]() 拡大鏡ごしの冠。なんたる繊細さ… |
![]() 古代アプーリア地方で作られた、ギリシャ風の赤絵壺(紀元前320〜前310年ごろ)。 題材はギリシャ神話の英雄、ペロプス。見上げるような大きな壺で、儀式用の水入れだそうです。 |
![]() 左の壺の細部。 描線が生き生きと踊って、魚も貝もちゃんと生きています。 |
![]() 熟練の走る筆遣い! 迷いなく筆を動かす職人の姿が 見えるような気がします これらの赤絵の壺は、ギリシャ色のとても強い作品です。当時アプーリア地方は、ギリシャ式の焼き物の主要産地だったそうです。 |
![]() 女性の頭部をかたどった壺。 (Canosa出土、紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭) でもこの展示の主役は、こちらです。 「カノーザの壺 Vasi Canosini」あるいは「マゼンタ色の壺」とも呼ばれる、色も造形もたいへん風変わりな作品群。 いずれもプーリア州のカノーザで発掘された、大ギリシャ時代の副葬品です。 |
![]() 有翼の女性や馬で飾りたてられた壺。 Canosa出土、紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭 カノーザで独自に発展したという、この様式の大きな特徴は、見ての通りの過剰な装飾です。 |
![]() 「飛び出す絵本」感がすごい、この四頭の馬。 おそらく、魂をあの世にすみやかに送り届ける、という意味があるのでしょう。精霊馬の逆バージョン? 立体的な装飾は、本体の壺とは別に造形、焼成されて、あとからくっつけてあるだけだそうです。 副葬品なので、実用性や耐久性は考える必要がなく、そのおかげで、こんなにも自由奔放な形が生まれたようです。 |
![]() 四頭立ての馬車が描かれた壺 (Canosa出土、紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭) |
![]() 「カノーザの壺」のもうひとつの特徴が、見たことのないこの色彩。パステルカラーというか、たいへん今風に感じます。しかもこの鮮やかな絵は、なんと素焼きの壺の上からさっと描いただけで、ちゃんと焼きつけられてはいない由。 副葬品はお墓に納めたら終り、なので、「葬儀の瞬間に美しければじゅうぶん」という考えの下、はかない水溶性の絵の具が使われたようです。 中でも印象的なこのピンク色は、セイヨウアカネの根から採取する色素アリザリン(別名マダーレイク)だそうです。 二千年以上も墓所で眠るあいだに、かなり色は褪せたはずですが、それでもこの華やかさ。作られた当時は、もうぎょっとするほど鮮明な色だったかもしれません。 ほかに白色は、大理石を粉末にしたもの。青色は孔雀石などを砕いたエジプト青。朱赤は弁柄(酸化鉄赤)。この三色はもっと耐久性がありそうですね。 |
![]() ピンク地に色白な女性が描かれた壺 (Arpi出土、紀元前3世紀) カノーザよりやや北のアルピ Arpi は、当時カノーザと並ぶ焼き物産地だった由。 |
![]() (同じくArpi出土、紀元前3世紀) 上の丸い部分に、ギリシャ神話の怪物三姉妹ゴルゴーン(有名なメデューサはそのひとり)の顔がついた壺。魔除け目的でしょうか。 |
![]() 女性の頭部をかたどった壺 (Canosa出土、紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭) 下の女性の整った顔立ちや髪型、上の女性像の衣服のまとい方など、明らかにギリシャ風なのだけれど… それらが組み合わさって、今まで一度も見たことのない、心がぞわぞわするような目新しい作品となっています。 |
![]() 女性の頭部をかたどった壺 (Canosa出土、紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭) ギリシャの赤絵壺と、カノーザの壺を組み合わせたとおぼしき、妙な作品。明け方の夢に出てきそうなまなざしです… |
![]() ほぼ等身大の、祈る婦人像 (押収品につき出土地不明 紀元前4世紀後半〜前3世紀初頭) 衣服のすそに固定するための?穴があけてあるので、きっと葬列とともにしずしずと運ばれ、遺骸といっしょに墓所に納められた、と考えられているそうです。葬儀に立ち会う泣き女のかわりなのかもしれません。 この展示のおかげで、あの儚くも鮮やかなマゼンタ色を、何の関係もないサンタンジェロ城と結び付けて、いつまでも思い出すことになりそうです。実におもしろいものを見せてもらいました! |
![]() テベレ川の向こう岸から、振り返ってみたサンタンジェロ城。 |
![]() そうそう、この矢印のところにも、アレクサンデル六世のばかでかい紋章が貼りつけてあります。 |
![]() 宿のオーナーさんお勧めの、パンテオン近くのレストランへ。 日曜だけどまだ昼前なので、なんとかなるだろう…と思ったのですが甘かった。お客さんはまだひとりもいませんが、すでに予約で満席とのこと。 |
![]() 外の席なら…と言われましたが、いま気温は7℃くらい。寒いです。でもほかのレストランに行っても、入れる確率は低そうです。しかたない、諦めて座りますか。 でも冷たい椅子に座るともっと寒くて、予約を怠った宿六に腹が立ってきて、ここぞとイタリア語らしきもの?で、寒いの、死にそうだのと大声でしゃべっていたら、お店の人が大急ぎでストーブを持ってきてくれました。 そして、「はっきり言って、男なんかどうでもいい。美しい女性だけ生き延びればいいのです」と、私のすぐ横に据えてくれます。 60歳でも、これくらいのおあいそは言ってもらえるんですね、さすがイタリア。褒めて遣わす。やはり悪い気はしないぞ(笑) |
![]() ストーブの次に出てきたのは… 元気のいいバングラデシュ人ウェイター君にノセられて注文した、ちょっと良さそうなワインと、カリッと焼いたパンの上にトマトを載せたブルスケッタ(Bruschetta con pomodori)。 長年避けてきたパンですが、これがワインと一緒に出てきたら、抵抗不可能。 |
![]() 念のため私は、まだパスタは避けて(結果的にむだな抵抗だったわけですが…)、お米料理にしました(Riso saltato con carciofo croccante)。 料理法は不明ながら、固めのリゾットを鉄板に押し付けて焼いたがごとき、パリッとした仕上がりで、アーティチョークのフライもついて、おやおやこれはおいしいです。 それでも外で食べるのは嬉しくないですが、お皿や料理にいちいち寒そうな青空が写り込むのは、ちょっと楽しいですね。 |
![]() 宿六は、かつての私の得意料理、ブロッコリーのパスタを選びます(Fusilli con broccoli e guanciale croccante)。お皿の前の両手だけで、喜んでいるのがわかります。 すると私の前にも、パスタ少しをのせたお皿が、「Deve assaggiare ! あなたも試さんと!」との掛け声とともにポンっと置かれます。こ、これは手を付けないわけには… 人類ならだれしも、同席の人のパスタは味見したいですよね。なのでこの店では、最初から少しとりわけて、同席者に出す決まりになっているようです。 なかなか気がきいています。急いで活性炭を1カプセル飲んでから、味見。文句なしにおいしいです。 |
![]() ワインもグルテンも?ほどよくまわって、寒いけれど良い気分になってきました。いえでもやっぱり寒い! |
![]() シチリア島に行く明日からは、きっと海の幸ざんまいになるので、きょうはお肉の気分です。 これは仔牛か豚だった気がしますが…豚のほうかな…なにしろ寒いので、あったまろうと急いで飲んで酔っぱらい、記憶喪失。 |
![]() たぶんこちらが仔牛。やや塩味はきつめでしたが、ワインにちょうど良かったです。 久しぶりのジャガイモの、ローズマリー風味もおいしいです。はいはい、私だってわかっております、炭水化物はたいそうおいしゅうございます。 特に、これくらい寒いときには。 |
![]() これは付け合わせのチコーリア(Cicorietta romana saltata)。ニンニクとトウガラシ、塩で味付けしてあります。独特の苦みがたまらなく好きです。 イタリアではありふれた野菜でしょうが、ペルーにはないので、タネを取り寄せ、パチャカマックの庭でほそぼそと育てています。 でももったいなくて、一度にこんなに大量に炒めたりはできません、贅沢贅沢。帰国したら増産せねば。 |
![]() このときはパンはやめときました。味見だけでもしとけば良かった… |
![]() 宿六のあったかいチョコレートケーキ(Tortino caldo al cioccolato)。青空が良い飾りになっています。 |
![]() 寒いと言いつつ、私は栗のアイスクリーム、チョコレートソース添え(Semifreddo di castagne con cioccolato fuso)。 このお店の人たちは、みなさん明るく親切で、寒いにも関わらず、とても楽しく過ごせました。 (シチリアから戻ったらもう一度、ちゃんと寒くない席を予約して行きたかったのですが、けっきょく機会がありませんでした。もしまたローマに行くことがあれば、必ず寄ります。次回は私もパスタを注文します) |
![]() この冷え込む谷間で食事して、無事生還できました。 まだローマ滞在三日目ですが、ちょっとした会話がわかるのがとても嬉しいです。やはり語学って、使えるから楽しい。 私もまだ60歳そこそこなので、この世にいるあいだに、ヨーロッパポルトガル語とフランス語は、ざっくりわかるようにしたいです。 |
![]() 寒い川沿いを少し散歩して、サンタンジェロ城を眺めます。 今朝、城砦内で見た、ロマンティックな夕景の絵を思い出しました。 |
![]() この絵です。サンタンジェロ橋のむこうから描いたようですね。 壮絶な歴史を秘めた城砦、ということで、行かず嫌いな名所でしたが、きょうは少し見解が変わりました。 |
![]() ぶらぶら歩くうちに、とつぜん街なかに立派な遺跡が現れました。トッレ・アルジェンティーナ広場(Largo di Torre Argentina)です。 一説によると、ユリウス・カエサルは、ここで刺されたそうですね… 何かしら悲惨な記憶がまつわる場所に、どこにいってもぶつかって、ローマはそれがちょっと重たいなあ。 |
![]() 遺跡じたいは、現代の街にごく自然に溶け込んで、とても良い雰囲気です。ぐっと低くなっているところに、時の流れを感じます。 |
![]() しかも猫スポットでもあります! 遺跡の地下に野良ちゃんシェルターがあって、リマのケネディ公園のように、里親探し等の活動を行っているそうです。 ここも次回があれば、寄付代わりの猫グッズを購入すべく、ぜひ立ち寄りたいと思います。 |
![]() 暮れ始めた青空が美しく、まだしばらくうろつきたい気分ですが… 今夜は早くお宿に戻って、ほどいたばかりの荷物を、また詰めなおさないとなりません。 あすは早朝にローマを出て、空路シチリア島に向かいます。 なお、「あとで頭痛が起きるかも?」と、お昼にビクビクもので試したパスタ、大丈夫でした。ふつうに消化できました。 |